1977 アテネ、クレタ島
女性自身のグラビア撮影でギリシャを旅行。
【主な旅程】
1977.6 コルフ島〜クレタ島〜アテネ (ギリシャ)
【発表媒体】
女性自身1977.8.4号「翔ぶ ユーミンとギリシャが出会った旅」全5頁
文:松任谷由実、写真:宮地義之、衣装協力:ミスタカオ、ムービングブルー、メイク:矢野利子
【メモ】
· 「女性自身」の中の特集として主にユーミンのグラビアと紀行文が掲載されています。
· ステキなのはコルフ島ガストウリの丘に建つ宮殿でカジノにいそしむユーミン。アルバム「紅雀」のジャケットの衣装を着ています。
· クレタ島ではテレビ撮影をしていた小松左京のチームとたまたま出くわし一緒に過ごしたそうです。
1978 カルフ
TBSのテレビ番組「ロマンを旅する」の取材でカルフ地方を旅行。
【主な旅程】
1978.6 カルフ(西ドイツ)
【発表媒体】
TBS 「ロマンを旅する 世界の文学散歩」1978.7.2放送 (情報は明星78.8号より)
【メモ】
· TBSの番組の合間に15分間だけ放送されていた旅番組のナビゲーターとして出演。
· ユーミン出演会はヘルマンヘッセがテーマで彼が生まれ育った当時西ドイツのカルフを紹介。
· Yuming Expressツアーパンフにはこの時、ソ連にも行ったような書かれ方がしていますが、取材(仕事)だったかどうかは不明。下述の90年ソユーズ打ち上げ時に12年ぶりのソビエトと言う情報があるので、この時に行ったのは間違いなさそう。
1980 ロンドン
撮影とプライベートを兼ねた旅行。アルバム「時のないホテル」のイメージづくりの目的もあったよう。
【主な旅程】
1980. 1/19-29
【発表媒体】
特に特集を組んだ媒体はないが、いくつかの音楽雑誌が写真を紹介している。
滞在したブラウンズホテルではアルバム「時のないホテル」のジャケットが撮影されており、
ライナーやツアーパンフでも旅行のスナップと共に滞在したブラウンズホテルを紹介。
ユーミンが意外な連載も持っていた雑誌「サンデー毎日」の「おんなの午後」では素敵なティータイムの様子が語られています(80.3号掲載)。
【メモ】
· ホテルをテーマにしたアルバムとコンサートを考えており、そのイメージづくりと撮影のための旅行だったそうです。
· 2022年現在のブラウンズズホテル → Googleストリートビュー
1980 ジャカルタ、シンガポール、ベナン
撮影とプライベートを兼ねた旅行。この旅行が「SURF & SNOW」と「水の中のASIAへ」を生むことに。
【主な旅程】
1980.
8/19: 成田発、インドネシア・ジャカルタ・サリム国際空港着 サヒドジャマホテル泊
8/20: ジャカルタ観光 夜はプトリ島に渡りバンガロー泊
8/21: プトリ島
8/22: 再びジャカルタへ サヒドジャマホテル泊
8/22: シンガポールへ マンダリンホテル泊
8/24: 市内ラッフルズホテルで撮影(アルバム「水の中のASIAへ」のジャケットになります)
8/25: 王天麗のショーを観劇
8/26: ベナン(マレーシア)へ ラササヤンホテル泊
8/27: 帰国、成田へ
【発表媒体】
特に特集を組んだ媒体はないが、FC会報「YUMING」3号が旅程を詳細に伝えている。
ラッフルズホテルでの撮影はアルバム「水の中のASIAへ」のジャケットに、
インドネシアでの撮影はアルバム「SURF & SNOW」やアルバム「水の中のASIAへ」の宣材写真として広く使われていた。
【メモ】
· もともとASIAをテーマにしたアルバムとコンサートを考えていたそうで、そのイメージづくりと撮影のための旅行だったそうです。
· この時、リゾートに滞在したことがアルバム「SURF & SNOW」を先に作るきっかけとなったようです。
· イメージづくりのために旅行に出かけ、成果として作品とコンサートを創る、そのパターンを1年に2回やる・・・やはりすごいですね!
1983 パリ、ロンドン
雑誌「ViVi」「ミュージックマガジン」の取材・撮影。
【主な旅程】
1983.6/2-12
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パリ パリ市庁舎やパラディ・ラタンなどで写真撮影が行われているが、 |
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ロンドン スタジオ・AIRロンドンでポール・マッカートニーと対談 |
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【発表媒体】
雑誌「ViVi」(講談社)1983.10号:「ユーミンの欧州旅行」(フルカラー12ページ)
【メモ】
· 83年のロンドン、パリ旅行を雑誌「ViVi」が12ページにわたり大特集。パリの記事を10ページ、残り2ページでポールマッカートニーのもとを訪れたときのレポートが掲載されています。表紙はエッフェル塔をバックに着物姿で佇むユーミン。
·
パリ編は有名な観光地やイベントではなく、パリの巷をユーミンがレポートするような、今でいうとブログのような感じでしょうか。
「パリのヤスウマ・ファッション」ユーミンは古着狂いなところがあるようで、世界各地で古着を見るのをとても楽しみにしているそうです。パリの古着は中古品だけではなく、アンティークの新品が掘り出し物で売られています。誌面にはユーミンが手を真っ黒にしてハントしてきた古着たちが解説付きでずらっと紹介されています。中には「ダンデライオン」のジャケットで着ている花柄のワンピースも。50年代のもので、日本で買ったら20万円はするが、半額もしなかったとのこと。
「パリ・ファッション’83」では日本にまだ来ていなかったアニエスBを紹介。長らくファッションはパリ発、ロンドン、NYを経て世界中にという流れがありましたが、当時は徐々に情報の非対称性が緩和され、もはやパリが世界のファッションの中心でもなくなってきていたようです。加えて、現地では高級志向が飽きられてきており、そこに登場したのが作業着を基本にしや安価でセンスにあふれたアニエスBだったそう。
ほか、レビューを観たり、素敵な絵画に出会ったり、広大な植民地を持っていたフランスに集まる植民地料理を食べたりと楽しくパリを過ごす様子が紹介されています。
·
ロンドンパートはポール・マッカートニーを訪ねた際のレポート。東芝EMIの石坂氏によると、この10年様々な人から頼まれ30回以上取材や対談をポールにオファーしたがすべて断られており、最も会うのが困難な有名人の一人だったとか。
ユーミンはあった瞬間ポールのパワーに鳥肌が立ち、気がついたらガンガン英語を話しており、しかも英国人であるポールに流暢だと褒められたそうです。現場には奥さんのリンダとジョージ・マーティンも。ポールからはサイン入りの楽譜集をプレゼントされ、ユーミンは当時日本にしかなかった?「ピップ・エレキバン」をプレゼントしたそうです。
1984 ロンドン、ウェールズ、ベニス
ビデオ「コンパートメント」の撮影のために約1カ月間ロンドンやベニスに滞在。
【主な旅程】
1984.4/〜5/ ロンドン、ウェールズ(イギリス)、ベニス(イタリア)
【発表媒体】
【メモ】
· 詳細はビデオ「コンパートメント」のページ参照。
1985 パリ、ロンドン
ユーミンブック「スタイル」のための取材・撮影。
【主な旅程】
1985.
3/21 |
成田より出発 |
3/22-24 |
パリ |
3/25-27 |
ロンドン |
3/28 |
帰国 |
旅程はDADIAツーのパンフレットより
【発表媒体】
【メモ】
· 詳細はユーミンブック「スタイル」のページ参照。
1985 モロッコ
フォトミスティック「モロッコの夢」のためにモロッコ各地で撮影。
【主な旅程】
1985.
4/17 |
コレラと破傷風の注射を打ち、一旦ロンドンへ(ちなみにこの日の朝4時まで「今だから」の唄入れ)、 |
4/18-20 |
ロンドンで衣装チェック |
4/21 |
スタッフ14名とモロッコへ移動 |
4/22-26 |
マラケッシュで撮影 |
4/27-29 |
ザゴラへ陸路10時間の移動、砂漠で撮影 |
4/30 |
再びマラケッシュへ戻る |
5/1-3 |
エッサウィラで撮影、朝焼け、船上シーンなど |
5/4-6 |
15時間かけマラケッシュ経由でメクネスへ移動 |
5/7-8 |
イフレンで撮影 |
5/9 |
フェスへ移動 |
5/10 |
撮影終了、ラバト、マラケッシュ、カサブランカ経由でロンドンに戻る |
5/13-15 |
ロンドンでスタジオ撮影、5/15は日本食で打ち上げ |
5/16 |
帰国 |
旅程はDADIAツーのパンフレットより
【発表媒体】
【メモ】
· 詳細はフォトミスティック「モロッコの夢」のページ参照。
1986 香港
雑誌「MORE」の取材で香港を取材。
【主な旅程】
1986.
「MORE」のメイン記事は香港島で「幸福感」をテーマに全く違う暮らしを送る香港人を取材。
香港島 |
香港仔(アバディーン)の水上生活者を訪ねる 「香港へ行ったら、ぜひ水上生活者の人と話してみたい、と常々思っていた。舟で生まれて舟で育ち、その舟の中から、赤や緑に輝く香港のイルミネーションを見続ける人々。彼らが何を想い、何を望んで生きているのか―」「人生を楽しめるかどうかって、その人なりのキャパシティを自分自身で認められるか否かに関わっているんじゃないか」 |
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半山区(ミッドレベルズ)の独身リッチマンを訪ねる 「まずはパーフェクト。でもなぜか、”起きて半畳、寝て一畳”なんて言葉を思い出してしまった。いくら大金持ちでも話の接点さえ見つかれば、なんだ対等じゃない、と。上の限界は、下と違って、あくまでも想像の範囲内なのかもしれないな。」 |
サブ記事の取材では街の様子やお買い物の様子が紹介されています。
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九龍 |
・ペニンシュラホテル ティータイム ・夜の油麻地、男人街(廟街) |
・漢方薬局「余仁生」 身振り手振りで精力剤を買ったそうです 「モロッコへ行くときも買いあさったの。ほとんど私、精力剤コレクター。」 |
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・英記老茶荘 中国茶をしこたま買ったそうです(笑) ユーミンによる私流きき茶の見分けアドバイスも掲載 |
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・尖沙咀(チムサーチョイ)でヒスイを買う 「ヒスイは絶対に買おうと思っていた。それも香港のおばあちゃんがつけてるみたいなピアスを。 ヒスイのピアスって日本じゃなかなか見つからないし。有機的な色合いがステキ。 石によって違うパワーを見極めて買うのがコツね。」 ・潮州城酒楼 潮州料理を食す「香港に行くと言ったら通が皆『絶対に潮州料理を食べておいで』ってすすめるの」 |
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・スターフェリーで通勤者と共にゆったりと香港島へ |
香港島 |
・セントラル近くの生鮮市場、鯉魚門 ・文武廟(モンマート)近くの骨董屋でターコイズを買う 「気持ちをそそるターコイズのブローチ、帯留めにいいでしょ。」 |
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【発表媒体】
雑誌「MORE」(集英社)1986.12号「松任谷由実『香港』にふれる 不思議の国のユーミン」(フルカラー、15ページ)
文: 松任谷由実、撮影: 奥谷仁
【メモ】
· 雑誌「MORE」の巻頭特集/MOREの旅「松任谷由実『香港』にふれる 不思議の国のユーミン」という企画で香港を取材。
リードより「11年後の中国への返還をにらみながら、ちょっと張りつめている街、香港。そんなミステリアスにしてロマンチックでテンションの高い街を、大いに歩き、買い、食べ、人と出会い、ユーミン流スノッブ感覚でせめてみた。結果、たっぷりと不思議するための、新感覚香港ガイドとなった。」
· ユーミンが羽田の話をするときによく出てきますがおじいさまの初めての海外旅行の地が香港。子供のころ夜の羽田に迎えに行ったことがユーミンの海外旅行の原体験だそうで、ずっと香港に憧れがあるそうです。「私にとって”旅”とはシンパシィと疎外感を両方感じてHOMEに帰ってくること。香港はシンパシィの多いところ、渡る風がすこおし優しい大好きな街・・・・・。」
· ビクトリアハーバーを挟んだ九龍側と香港島側の地図が載っており、ユーミンの訪れた場所含め細々とした場所がスナップ的に紹介されています。そのスナップ感がごちゃっとした香港らしい。世紀末以降、刻々と変わる香港の86年当時の雰囲気ってこうなんだという感じがよくわかる気がする特集です。
1987 パリ〜ダカール
パリダカールラリーにプレス参加。
【主な旅程】
1986. |
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12/27 |
アンカレッジ経由でパリへ |
12/31 |
パリで予選見学 |
1987. |
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1/1 |
パリ出発バルセロナへ |
1/2 |
バルセロナからアルジェへ |
1/3 |
アルジェ |
1/4 |
ガルダイアからエルゴレア |
1/5 |
エルゴリアからインサラーへ |
1/8 |
テレネ |
1/10 |
アガデス |
1/11 |
アガデスからニアメーへ |
1/12 |
ニアメーからガオへ |
1/14 |
ガオからトンボクトゥ |
1/15 |
トンボクトゥ |
1/17-19 |
ダカール |
1/20 |
ゴア |
1/21 |
ダカール |
旅程は写真集「サウス・オブ・ザ・ボーダー」より
【発表媒体】
マリクレールジャポン
【メモ】
· 詳細は写真集「サウス・オブ・ザ・ボーダー」のページ参照。
1989 南米
雑誌「エスクァイア」の取材で南米を旅行。
【主な旅程】
1989. |
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9/24 |
ロスからメキシコシティ経由でリマ(ペルー)へ ちなみにロスではアルバム「LOVE WARS」の仕上げに立ち会っていた |
9/25 |
リマで自由行動 ショッピングやロケハン |
9/26 |
取材開始、パチャカマ遺跡へ行くがストで入れず 港町プワサナへ なんと空軍の撮影禁止区域で撮影してしまいユーミン一行は4発の威嚇射撃を受けてしまう 誰も怪我はなかったが目だしニットの男達に銃口を向けられ大変怖い思いをしたそう |
9/27 |
早朝便でクスコ(ペルー)へ。クスコを拠点にタンボマチャイ、サクサワマンへ |
9/28 |
ユーミンは朝から発熱するも予定を強行 クスコからバス、列車、バスト乗り継ぎ空中都市マチュピチュへ クスコに戻るころには熱と高山病でユーミンはぐったり |
9/29 |
ユーミン驚異の復活 早朝より買い物に出かけ、午後にリマ経由でイキトス(ペルー)へ 夜はイキトスのディスコでガイドのアカギさんとのお別れパーティー |
9/30-10/1 |
マナウス(ブラジル)へ移動 アマゾンでピラニア釣りやワニ狩りに ピンクイルカにも出くわす |
10/2-3 |
リオデジャネイロ(ブラジル)に移動 イパネマ、レブロンを散策 ヘリでコルヴァードのキリスト像とリオの夜景を |
旅程は雑誌「ティエラ」より
【発表媒体】
【メモ】
· 詳細は雑誌「ティエラ」のページ参照。
1990 モスクワ〜バイコヌール
TBSの取材でソ連の宇宙船ソユーズの打ち上げを取材。
【主な旅程】
1990.7.24〜8.6 |
当時ソビエト連邦のモスクワ(現ロシア)とバイコヌール(現カザフスタン)を訪れる。 |
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モスクワでは赤の広場、ゴーリキ公園他、市街地を取材。 モスクワから50kmの星の街(ガガーリン宇宙飛行士訓練センター)では 実験の見学や関係者へのインタビュー、12月の打ち上げのために訓練をしていた秋山、菊池両候補にもインタビュー。 |
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8月1日はバイコヌール基地でソユーズTM11号打ち上げを発射台から2kmの場所で見学。 記者会見ではユーミンが乗組員にインタビューするシーンも。 |
【発表媒体】
雑誌「ガリバー」(マガジンハウス)90.11号 「惑星的ロシア YUMING USSR」
写真: 三浦憲治、取材&テキスト: 松木直也、スタイリング: 川俣喜代美、ヘアメイク: 古久保英人
TBS系「TBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』」の中の「ロシアの風、宇宙の風、ユーミン」(1990.12.23放送約90分)
監修: 龍村仁、スタイリング: 川俣喜代美、ヘアメイク: 古久保英人、演出協力: 前嶋輝、構成協力:松木直也
【メモ】
· TBSは創立40周年事業として、日本人をはじめて宇宙に送る企画を進めており、TBS記者の秋山特派員が90年12月2日にソユーズに乗りこむことになりました。TBSは打ち上げ中継を含むこの一連の企画を1か月にわたり放送。その中の1コーナー「宇宙の風、ロシアの風、ユーミン」のリポーターとしてユーミンが選ばれ、実際に90年夏にユーミン本人が当時ソビエト連邦だったモスクワ(ロシア共和国の首都)とバイコヌール基地(カザフスタン共和国)を訪れロケが行われました。また、雑誌「ガリバー」が90年11月号で約半分の80ページ近くを割いてソビエト特集を企画、その半分くらいのページを使い「惑星的ロシア YUMING USSR」と題しこのユーミンの取材が掲載されました。
· ユーミンの訪れた当時はソビエト連邦崩壊直前、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカをすすめ、計画経済に一部自由市場が取り込まれ始めていた時期でした。「ロシアの風、宇宙の風、ユーミン」「ガリバー」ともども、国家が強力に推し進める宇宙事業と、変わりつつあるモスクワの市井の様子の2面を紹介。
· TBSの「ロシアの風〜」は、前者として技術の粋を集めた宇宙飛行士の育成都市である「星の街」や、巨大水槽の中で行われる宇宙ステーションミールのトラブル解決シミュレーションの様子、8月1日のバイコヌールからのソユーズTM11号打ち上げの120秒など、貴重な映像を放送、後者としては技術の粋とは真逆のUFOや霊媒師など神秘的なものに興味を持つ人々の様子を紹介。ユーミン特集としても、ゴーリキ公園で「天国のドア」のPVを撮る様子や、UFO会議で急遽弾語りで歌うことになった「ベルベット・イースター」、高名な霊媒師ジーナの治療と「お黙りよ、ちょっと」(笑)、ソユーズ打ち上げの大迫力とそれに呼応して感動のあまり崩れ落ちるユーミン、直接の関係はないですが幻の「LOVE WARS TOUR」の記録映像などなど見所たっぷりの特集でした。
· ユーミンはこの体験をもとにTBS特集のメインテーマとして「SAVE OUR SHIP」を制作、この年のアルバム「天国のドア」の為のユーミンなりの宇宙感を纏め上げるのにも多大な影響を与えたようです。また当時の90年8月28日放送のANNによると、このロケ映像を使用し「時はかげろう」「天国のドア」のPVを作るつもりだったようです。結局PVは作られなかったようですが、この素材は「ロシアの風〜」の中で放送されていました。ちなみに、興奮冷めやらぬユーミンは帰国直後のFM番組で「300mくらいあるロケットがねぇ!」と熱弁。放送終了後「はー、東京タワーくらいあるんですねぇ」というスタッフに、「・・・さすがにそんなわけないよなぁ」と冷静になったというおちゃめなエピソードも(ソユーズTM11号は全長49.52m)。
1991 モナコ
雑誌「POPEYE」の取材でF1モナコグランプリを観戦。
【主な旅程】
1991.5.6〜 |
F1モナコグランプリを観戦 |
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レースの合間のパーティーに鈴木亜久里とともに参加。ここでユーミンはアイルトン・セナにも会っています。 フェラーリよりも高い着物で撮ったツーショット写真が残っています。 レースの次の日に鈴木亜久里のディアプロの助手席に乗せてもらい、ユーミンもコースを体験。 |
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【発表媒体】
雑誌「POPEYE」(マガジンハウス) 91.7.3号 「独占・ユーミン、モナコGP体験記」(フルカラー、16ページ)
テキスト: 松任谷由実、鈴木亜久里、写真: 三浦憲治、金子博、小池宣夫、長野勉、スタイリング: 川俣喜代美、ヘアメイク: 高野孝喜
フジテレビ系で放送した「F1 GRAND PRIX1991第4戦モナコ」でもレース前にピットで鈴木亜久里にインタビューする様子が放送されている。
ただし、ユーミンが登場したのは120分近くある番組の冒頭5分ほど。
【メモ】
· 雑誌「POPEYE」の取材でF1モナコグランプリを取材。
· この時期、日本は空前のF1ブーム。80年代後半、鈴鹿で日本グランプリが始まり、日本でもF1が認知されるようになります。また、伝説のドライバー、アイルトン・セナがいたマクラーレンにエンジン供給していたのは日本のホンダで、同社がサポートしていた日本人ドライバー鈴木亜久里や中嶋悟もF1に参戦。バブル期なこともあり多くの日本企業がF1に対しスポンサード&国内プロモーションを行っていました。また、モナコグランプリは伝統とセレブリティ、市街路を走る難易度から特別なブランド感を持っていました。
· 「POPEYE」の紙面はユーミンと鈴木亜久里によるテキストが11ページ、POPEYEの記者によるパドック裏話が5ページ。ユーミンなりの視点が面白い。
· 「モナコもリオと同じように世紀末の臭いがする。(中略)モナコのF1なんて完全に席末のイベントだと思う、昔ならキツネ狩りでもしてたはずの大金持ちが、スポンサーになってお金出して、ハングリーなレーサーを雇って走らせる。(中略)要はタニマチ遊びヨーロッパ版だと思う。しかも普段なら顔も見せないスポンサーの大金持ちも、モナコだけはクルーザーでやって来る。どんな人間が集まるんだろう。どんなデガダンが見れるんだろう。どんな”気”がうずまくんだろう。モナコにイベントが持ち込まれて、モナコの本質が姿を見せる。それがグランプリの日なんだと思う。」
· 「東名で200キロ出すなんてちょっとした勇気があれば誰でもできると思う。でも片道一車線の駒沢通りで200キロ出せって言われたら、これはそうザラに出来るもんじゃない。(中略)モナコのコースはホント、その辺の道と考えればいい。昔のクルマならともかく、今のF1で40年前と同じコースを走るなんて、とんでもないと思った。」「コーナーの内側には全部建物が建っているから、曲がったその先は全然見えない。(中略)実際には誰かに突っ込んでしまう可能性は高いのに、何も起こっていないという前提で全開できないとモナコは走れないよと亜久里さんは言う。全員が誰もミスしないはずという前提でレースができるというのは、さすがにプロの仕事だなあと思った。」
· 「決勝の日、私はピットとプールの近くでレースを観ていた。プールサイドのクランクなんか、コンクリートの壁から2センチも離れてないんじゃないかな、そんなところをF1は走る。2センチのところを通る技術もすごいが、毎周回毎周回、1センチたりともズレずに2時間走り続ける体力からくる集中力もすごいと思う。」
· こういう取材物の満足感は、主役本人(例えばユーミン)の視点をどれだけ掲載しているかという点もありますが、もう一つ重要な点として顔の見えない記者による補足記事によってその取材対象のエコシステムを感じられるかどうかにかかっているように思います。この点において非常に満足感の高い特集になっていると思います。例えば、モナコグランプリを観戦することがいかに難しいか、セレブの熱狂ぶり、F1が何故スポーツだと言えるのか、何故ドライバーがアスリートと言えるのか、などなど。
1992 L.A.
ユーミンは87年より毎年アルバム制作でL.A.に滞在しています。このページはレコーディングによるものは含めないようにしようかと思っているのですが、
雑誌「éf」のL.A.特集は旅感があるのと、「U-miz」感もあるので掲載することにしました。
【主な旅程】
1992. 秋 |
「Tears and Reasons」のミックスダウンの付き添いでL.A.に滞在。その合間のプリトリップ。 |
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イン・オブ・ザ・セブンス・レイ L.A.のはずれ、トッパンガの山中にあるレストラン。ユーミンにとってはパワースポットなんだそう。 「パワースポットと言っても、そこに行けば急に感がさえるとかそういうものじゃないのよ。(中略)例えば神社にいくと脳が掃除されていくっていうのかな、そういう脳内清涼感があるでしょう。そういう感じがパワースポットにはあると思うの。だからこの山道は、神社で言えば参道よね」「私はアニミズムとシャーマニズムが合体した人だと思ってるの。アニミズムの世界から受け取ったことを、シャーマンになって伝えてるというか。といっても、何も人を救うとか宗教じみたことをいってるんじゃないんですよ。そうじゃなくて、人に分かる形で伝えるという事。」 |
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インディアン・アート・センター・オブ・カリフォルニア インディアンクラフトの専門店。アクセサリーや陶器、人形、カーペットなど様々なものが置かれている。 「(前略)アメリカのインディアンに対しては、特に“昔はいっしょだったんじゃないか”というシンパシーを感じるのね。私は日本に残ったけど、彼らは新天地を求めてベーリング海峡を渡ったとか。理屈じゃなく、たまらなく懐かしくなる。デジャヴがあるの・・・」 |
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トゥーバンチ・パームス 砂漠の中のリゾートホテル。ユーミンはマッパでマッサージを受け、満天の星空の下露天風呂を満喫したそうです。 各種トリートメントコースのあるディスティネーションスパ的なところでしょうか。 |
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グリフィス・パーク 全米最大の市立公園。夜には眼下に光で埋め尽くされたL.A.の街が広がる。 この山頂あたりの風景を思いを馳せ「サファイアの9月の夕方」を作ったそうです。 |
【発表媒体】
雑誌「éf」(主婦の友社) 93.1号 「松任谷由実 in L.A. 私がパワーをもらう、とっておきのロス案内」(フルカラー、8ページ)
文章・構成:温水ゆかり、撮影:安井進、ヘア&メイク:小澤かし子
【メモ】
· 雑誌「éf」がロス滞在中のユーミンを取材。ユーミンは87年より毎年秋にアルバムのミックスダウンに付き添いロスを訪れています。ただ歌入れは日本で済んでおり、ユーミン本人が手を動かす作業はほとんどないようで、合間に色々なところに出かけているそう。92年はロスのプリミティブな香りのする場所を雑誌「éf」と廻ったよう。
·
ユーミンのL.A.感...... この翌年制作に入る「U-miz」の構造とも似通っているように思えて興味深いです。
「ロスには『ダイアモンドダストが消えぬまに』のときに初めて来たの。そのとき煮つまりかえっちゃってね。私、運転できないんだけど、ロスって車ないと陸の孤島でしょう。(中略)泊ってたホテルのプールサイドでそのテープを聴いてたら涙が出ちゃってね。そのとき真っ青に抜けた空に、飛行機が字を書いていったの。(中略)ちゃんと出来上がる前に私には”Let’s Look L.A.”って読めて、ロサンジェルスを見ないまま帰っちゃダメだっていわれたような気がしてね」
「L.A.が世界で一番好きな街ってわけでもないの。だけどなじむにつれ、どんどんよくなっていくのは確か。それはやっぱり元の、土地が持ってるパワーのせいかな。私にはそれが見えるから。(中略)灌漑することで砂漠の上に作ったこの人口街の下を脈々とプリミティブなものが流れていて私はそれに感応するのね。そんな体験ができて、訪れる度にL.A.が好きになっていくのは、そういう見えにくかったものが見えてくるからだと思う。」
1993 ラサ〜カトマンドゥ
ビッグコミックスピリッツの取材でチベット、ネパール、エベレストを見る旅。
【主な旅程】
1993.
9.5 |
成田より北京(中国)へ。天安門広場を見学。 |
9.6 |
成都(中国)へ。パンダ動物園と陳麻婆豆腐店へ。麻婆豆腐発祥の店だそうでこの旅No.1の食事だったとか。 |
9.7 |
ラサ(中国)へ。ラサはチベット自治区の首都、標高3,650m。 |
9.8 |
ポタラ宮見学。ツォプからもポタラ宮を見る。 |
9.9 |
カンパラ峠へ。ヤムドゥク湖へ。標高4,800m、ユーミンは高山病に。 |
9.10 |
チベット仏教の総本山・大昭寺へ。夜は現地で知り合った北京大の留学生たちも入れてラサの打上げパーティ。 |
9.11 |
カトマンドゥ(ネパール)へ。機内からエベレストが裾まで見えたそうです。カトマンドゥ市内観光。 |
9.12 |
エベレストを見るためにヘリでシャンボチェ村へ。戦争映画に出てくる言うな背中合わせで乗るヘリだったそうです。 サガルマータ国立公園をトレッキング。夜は雨に。 |
9.13 |
4時起床。雲で何も見えない。このままではエベレストどころか、カトマンドゥに戻れない可能性も。 7時過ぎ、雲が晴れ山々が次々と姿を現し、ヘリに乗る直前ついにエベレストもその姿を現す。 ヘリでカトマンドゥへ戻る。 |
9.14 |
カトマンドゥのフリークストリートを散策。ヒマラヤを目指す冒険家にとってここは入口でもあり出口でもある。 「ただ何もなく南の島で、そこに快適なホテルがあってっていうのじゃ、みんなまんぞくしなくなってきたんじゃないなか。どこかで精神的な世界に触れられそうな感じとか求めてる気がしますね。ここは、それが隣接していてお手軽に味わえます。」 |
9.15 |
バドガオン寺、タメル地区でショッピング。 「2mくらい離れて見るとなんか渋い、と思うけど近くで見ると汚いね。それがグランジなんじゃないかと思うけど、東京、ロンドン、LA、NYではデフュージョンされているよね。コンディションのいいものに、本物の何か、それと風合いがあるものを合わせるのがいいけど、カトマンドゥのは気合が入りすぎて逆にこわい。日本だと関西のノリに近いんじゃないかな」 夜は「富士」という和食屋で打上げ。ここには連日通い詰めたそう。 |
9.16-17 |
香港を経由し成田へ。 |
旅程はU-miz展のパンフレットより
【発表媒体】
雑誌「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)1993.11.15号(一部カラー、20ページ)
TEXT: 松木直也、PHOTO: 三浦憲治、PHOTO ART: 横尾忠則
【メモ】
· ビッグコミックスピリッツの取材でチベットのラサとネパールの首都カトマンドゥ、エベレストを取材。
· ユーミンによるテキストは少ないのですが、松木氏によるユーミン一行の旅の細かなエピソードが紹介されています。エベレストはちらっとでも見ること自体が難しいらしく、あまり記事にはできていない(なかなか書きようがない)感じですが、そのぶん細かなエピソードから”聖地”独特の緩く怪しい雰囲気を味わえる感じです。
· アルバム「カトマンドゥ」はすぐに制作されたわけではなく、この旅の2年後。同ツアーのパンフでは、冒頭にこの時訪れた実際のカトマンドゥの印象と、作品のモチーフとなっていったカトマンドゥについて、次のように語られています。「期待が大きすぎたせいか、着いたとたん、あまりに普通の町でガッカリした。しかし、それから2年、全く気付かなかったけど、私の心の中に、しっかりと『カトマンドゥ』は生き続けていた。そして心の中の『カトマンドゥ』はやっぱり普通の町ではなかった。私の中で旅とは、ひょっとしたらそんな自分の心の中に旅することなのかもしれない、と思っている。」と語られています。
1994 北インド
横尾忠則との「インド楽々ツアー」
【主な旅程】
1994.
7.10-21 |
ニューデリーを拠点に北インドを旅行 |
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空港からホテルに向かうタクシーの中で聴いた「MOHRA」というインド映画のサントラを気に入り、 さっそくカセットを買い、映画も見に行ったそう |
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オールドデリー・チャドニーチョーク地区 |
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アグラ、タージマハル 「ガイドブックなんかでみたまんまのその姿に単純に感動した」 |
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リシュケシュ、ハルドワール 60年代にビートルズが訪ねた道場ヨーガアシュラムがある 物乞いの人々に見入ってしまう ユーミンは現地の女の子から「ジャコウジカの臍」なるジャコウが香る謎の毛玉を沢山購入したそうですが、 偽物で数日で何の臭いもしなくなったそうです |
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ウダイプル |
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ジャイプル ユーミンはひどい自己嫌悪に |
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ベナレス(バラナシ) ガンジス下流の聖地 貧困にあえぐ人々がここで死ぬためにやってくる巡礼の最終地点 「ああいうカルマからの解脱を求めている人たちを見ていると、いかに生がつらいかわかる。」 「同じ川辺で少し上流のところでは人の形で火が燃えて火葬されていましたね。」 「足くびが見えてたね。その燃えてる煙が全部われわれが乗ってる伝馬船にワァーっと入ってきて、 その焦げ臭いような臭いを嗅がざるを得ないんですよね。」 「牛の死体なんかがプカプカ浮いてて、死臭がするんですよ。」 「でもここで日本人は死を見るんだけど、本当は死の背後を見るべきだね。」 ガンガーの夜明けを見る |
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【発表媒体】
プライベート旅行だったようですが、雑誌「マルコポーロ」(文藝春秋)94.12号が横尾忠則との対談と写真を掲載(フルカラー、6ページ)
写真: 三浦憲治
そのほか、「Real Yuming VOICE」VOL.5や「THE DANCING SUN TOUR」パンフなどにも掲載
【メモ】
· 横尾忠則のガイドで敢行されたプライベート・インド旅行「インド楽々ツアー」。パーティーは映像監督の前嶋輝、写真家の三浦憲治、渡辺マネージャーほか8名。
· これまでのユーミンの旅行は(実際は知りませんが)どちらかというと秘境であっても綺麗な面が紹介されていたように思いますが、このインド旅行はなかなかハードなものだったのではないかと思います。公開されている写真もゴミゴミした様子で、「マルコポーロ」の対談もちょっとここに書けないなぁという内容もちらほら。。。特集のタイトルは「マジカル・サイケデリック・ツアー インドはハエの惑星だった。」なんちゅータイトルや。。。
· 過酷な旅ながらも「マルコポーロ」掲載のベナレスで横尾氏が烈火の如く怒った話や、「THE DANCING SUN TOUR」パンフに載った渡辺マネージャーのカレーのエピソードが面白い。
· 横尾氏はこの年のアルバム「ザ・ダンシング・サン」のジャケットを担当。「今度、お願いしたアルバムジャケット、これがすごいんですよ。かなり社会現象になると思うけれど。モチーフはインドのものがどこにも入っていないはずなのに、横尾さんのアングルからのインドを不思議と感じるんですね。」
1996 モンゴル
NHKの取材でモンゴルの伝統的歌唱法ホーミーを取材。
【主な旅程】
1996.
7.14 |
羽田から関空経由でモンゴルの首都ウランバートルへ。フライト時間は4時間と意外に近い。 |
7.15 |
ガンダン寺へ。ユーミンは地元のおばあさんに「小銭を持っていませんか?」と尋ねられたそうです。 |
7.16 |
国内線で西に4時間、ホブド市へ移動。座席は早い者勝ちだったそうです。 |
7.17 |
県庁へ挨拶と取材説明、それからトラブル時の対応依頼。4WDでゴビ砂漠の中にあるチャンドマン村へ移動。 |
7.18 |
この日からシャワーもトイレもない生活。ホーミーの名手ダワージャブさん一家と出会う。 |
7.19 |
約5時間かけて移動し笛と声を同時に出す奏法を取材。(おそらくオンエアでは使われていない) |
7.20 |
そうめん大会と数日ぶりに髪を洗ったそうです。でもシャワーに使う水はなし。夜はゲル初体験。 |
7.21 |
地元の結婚式を取材。 |
7.22 |
地元のお祭りナーダムを取材。 |
7.23 |
羊使いの少年、トルムンクと標高2,800mへ。 |
7.24 |
ダワージャブさん一家が羊料理で御持て成し。羊の解体を撮影。 |
7.25 |
羊があたりユーミン発熱。この日の撮影は中止に。 |
7.26 |
ユーミン、驚異の回復。再びダワージャブさんが滞在している谷を訪れ「花紀行」を披露。ホブド市へ戻る。 |
7.27 |
ウランバートルへ戻る。夜はウランバートルのディスコでナンパされたそうです(笑) |
7.28 |
関空経由で羽田へ。 |
旅程は Strollin' Cowgirl Tourパンフより
【発表媒体】
NHK「土曜特集・松任谷由実モンゴルを行く 〜 神秘の歌声 ホーミーへの旅」(1996.11.23放送・約80分)
【メモ】
· NHK「土曜特集・松任谷由実モンゴルを行く 〜神秘の歌声 ホーミーへの旅〜」の取材でモンゴルを旅行。番組では主に7/18以降のダワージャブさん一家との触れ合いが放送され、モンゴルに古くから伝わる歌声・ホーミーが村の人々の暮らしや行事でどのように歌い継がれてきたのか、どのような意味を持つのかが紹介されました。
· ホーミーは一人の人が低音と高音の両方を一度に発声するモンゴル独特の唱法およびそれによる歌声。取材にはATRの民族音楽研究者が同行、番組ではユーミンの歌声とホーミーの共通点として超音波の発声があることが説明されていました。
· ユーミンが滞在したチャンドマン村は草原の中にある遊牧民の村。標高1,700m、降水量は東京の1/5。ユーミン曰く「この土地は光の色が独特。遠くの山々パステルグリーンに霞んでいるし、朝の空の色はグリーンがかったブルーで、夕暮れはバラ色がかったオレンジ色。まるで風景に空から蛍光パウダーをまぶしたような柔らかな世界が広がっています。」
· 7.24の羊料理は、当地の人々にとって羊は神様が与えてくださった貴重ものであるから、決まった方法で解体し、血の一滴すら無駄にしてはならないという考えのもと、ユーミンをもてなすための料理として調理されました。伝統的な調理法と高地のため十分な煮沸ができず、ユーミンは翌日、トイレもないようなゲルの中で高熱を伴う嘔吐と下痢に苦しむことに。ANNでは「上から下から飛んでもないことになり(笑)、さすがのあたしもここまでかと思いました」と話していました。解体や調理過程を直に見ているのでヤバい気はしていたようですが、モンゴルでは「同じ体験をすることが人と人を繋ぐ」という考え方があるようで、貴重な羊を解体してくれた持て成しに体を張って応えたのではないでしょうか。また1日で回復しているのがすごい!ただ、一生モノの後遺症で、どんなに美味しいものでも羊肉が一切食べられなくなってしまったそうです。
· この番組は2022年にNHKプレミアムカフェの中で再放送されました。
1997 ハワイ
雑誌「FRaU」の取材でハワイ・オアフ島の原風景を訪ねる旅へ。
【主な旅程】
1997
10.20-28 |
リリウオカラニのサマーハウス ハワイ王朝の最後の女王・リリウオカラニの夏の宮殿跡地。パームの参道と露天風呂が遺っている。 彼女は合衆国統合に抵抗し、最後は幽閉されてしまう。実は別れの歌である「アロハオエ」の作者でもある。 97年当時はルアナヒルズという名門ゴルフクラブの中にあるが、王女の愛した場所として大切に管理されている。
カネオヘの公園にある”天国のドア” ロミロミの技師であり儀式ルアウの執事でもある女性のナビゲートで、 彼女がここを訪れるスピリット達から教えられたという「天国のドア」を訪れ、儀式を体験。 二本のパームツリーがお互いを囲むように聳え立っている。 「都会にある降霊術なんていうのは、何かに反発した“アンチ”という発想があるでしょう? だから大袈裟で、特別なものになっていたりする。けれど、民族的に受け継がれてきた土着的な物には、 “だってそうなんだもん””それが当たり前なんだもん”っていう軽さがあると思うんですよ。」
ノースショア プウア・マフカ・ヘイアウという古代の神殿跡からは、ノースショアのサーファーたちが見える。 「そのままの自然と稀に見る都会が隣り合わせてて、海もあり、山もあり、そしてその懐ではサーファー達が、太古の昔から変わらない方法でサーフィンを楽しんでいる。(中略)伝えられてきたハワイの風景のひとつなんだと思う。それは、太陽系の中で唯一地球という星が青く輝いているのと同じくらいの奇跡なんじゃないかな。奇跡の島なんじゃないかな」 |
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【発表媒体】
雑誌「FRaU」(講談社)1997.12号「違う女になって帰って来るハワイ」(フルカラー、6ページ)
撮影:三浦憲治、取材・文:小野綾子、ヘア&メイク:浅井昭彦、スタイリスト:小沢宏
【メモ】
· 雑誌「FRaU(フラウ)」の年末旅特集でハワイを取材。このところどちらかというと辺境と言える場所を訪れてきたユーミンですが、この年の旅はハワイ・オワフ島。ただし、良く知られたオモテのハワイではなく、ハワイの原風景を残す場所を訪れる旅でした。「辺境に求めていたものがなくなったというわけじゃない。けれど、たとえば家の周りとか、最近身近な場所にも同じものを発見することが多くなってきたんですよ。知っていたものをもう一度、改めて認識直すことがある。知っていたつもりのハワイ。そのハワイの奥深さを、見てみたくなった――」。
· この年はアルバム「スユアの波」を制作。ユーミンは年初からノースショアへの想いがあったようでこのアルバムのテーマも「サーフィン」をイメージに持ったものになりました。
1998 ガボン〜タンザニア、ケニア
TBSの取材で中部アフリカに生息する野生の類人猿をレポートする旅へ。
【主な旅程】
1998.
9.3 |
パリ経由でガボン共和国の首都リーブルビルへ。そこから軽飛行機で南のラ・ロペ・ゲーム・リザーブに 夜はシンバ族、オカンデ族、アケレ族合同のダンスを見せてもらう 2時間力強いダンスを見た後、村長さんから乾杯を受けた時のBGMはマイケルジャクソンだったそうです(笑) |
9.4 |
4時起きでゴリラとの出会いを求め森の中へ 3時間のトレッキング後足跡を見つけるも出会えず |
9.5-6 |
ラ・ロペ2日目 ゴリラと遭遇、ドラミングを聴く 素早く立ち去るゴリラの背中に腰を抜かしたそう ユーミンは徐々に森に言い知れぬ恐怖心を覚えたそう 高湿度と汗にびっちりこびりつく針なし蟻、軍隊蟻もいる中での過酷なトレッキングだったようです |
9.7-8 |
移動日 リーブルビルに戻り、カメルーン、ナイロビを経由してタンザニア・タボラへ そこから飛行機2時間、更に船で1時間、、、合計30時間かけてタンザニア・マハレへ |
9.9 |
京都大学霊長類研究所キャンプ「ホワイトハウス」へ チンパンジー探しへ 今度は傾斜40度の山登り 交尾、脱糞、男色までいろいろ見れたそうです チンパンジーが他のサルを捕食する断末魔も |
9.10-11 |
ホワイトハウスを拠点にチンパンジーの取材 9.11はシャーマンを迎えた村のお祭りを取材 トランスしてゆくシャーマンを見たコアな体験だったとか |
9.12 |
移動日 タボラ、ナイロビを経由してタンザニア・マサイマラへ ここから3日間はムパタロッジでゆったり やっとジャグジーにつかり虫刺されに薬を塗れるほどの余裕が |
9.13-14 |
ネーチャーウォーク 今度の景色は広大なサバンナ 気球に乗りマサイマラ平原と野焼きを見る |
9.17 |
帰国 |
旅程は 「シンラ」99.1号より
【発表媒体】
TBSラジオ特番「SAVE THE GREAT APES 滅びゆく森の住人達を救え!」(98.12.26 14:00-20:00放送)
出演: 松任谷由実、松宮和彦、小島慶子 他
雑誌「シンラ」(新潮社)99.1号「消えゆく森の住人を訪ねて ユーミンのアフリカ日記」(フルカラー、11ページ)
テキスト: 松任谷由実、福田史夫、写真: 青木保、三浦憲治
雑誌「TMORROW」(ライフ)99.1号「ユーミンのアフリカ横断日記。」(フルカラー、7ページ)
取材・構成: 吉開俊也、写真: 三浦憲治
雑誌「feature」(角川書店)99.2号「松任谷由実 人類が生まれた森で」(フルカラー、9ページ)
取材・構成: 吉開俊也、写真: 三浦憲治
【メモ】
· アフリカ中部の国ガボンにあるロペ特別保護区とタンザニアのマハレマウンテン国立公園に入って、野生のゴリラとチンパンジーを取材。この様子がTBSラジオの特番「滅びゆく森の住人達を救え!」でドキュメンタリーとして放送されました。なんと6時間もある長時間番組でした。(当時、まだMDが高音質で長時間録音できず、管理人はビデオテープに録音した記憶がありますが、すでに所持しておらず。番組情報をお持ちの方はご一報ください)。旅程最終地のマサイマラはTBSの番組には含まれていないようで雑誌2誌が掲載。
· 「SAVE THE GREAT APES」はTBSラジオの21世紀プロジェクトの一環として、類人猿研究で有名な京都大学の協力のもと、この年の8月に設立した基金。集められた基金は絶滅の危機にある野生の類人猿の保護のために使われます。この基金は現在も続いているようです。当時のTBS制作局長より「『不況下のニッポンで人間も大変なのに、なぜアフリカのゴリラ、チンパンジー、ボノボを今、救わなくてはならないの?』という質問を私も受けますが、TBSではこう考えています。野生のゴリラ、チンパンジー、ボノボは、彼らの住む熱帯雨林が、人間によって大規模に伐採され、住みかを失い、今絶滅の危機にひんしています。野生のゴリラ、チンパンジー、ボノボを救うことは、人間にとって大事な熱帯雨林を守ることになるからです。熱帯雨林では多くの酸素が生み出されるとともに、ゴリラやチンパンジー、ボノボばかりでなく数多くの未知の動物や植物が互いに深く結びつき合いながら生存しております。その中には人類の病気や食料危機などの問題を解決してくれる生物が生存している可能性が高いのです。熱帯雨林を守り、その生態系の中に生きるゴリラ、チンパンジー、ボノボを守ることが地球・人類の未来にとって非常に重要なことです。ぜひ野生の類人猿を助けるTBSの21世紀プロジェクト「セイブザグレイトエイプス」に参加していただけませんか。ゴリラ、チンパンジー、ボノボの未来は人類の未来でもあります。」
· ユーミンより「何かを得るには、何かを捨てる、というのは世の中の真理。人間は捨てては得て捨てては得てを続けてきて、今ここに20世紀の終わりを迎えてるわけだけど(中略)じゃ、その間に人間はその進歩に見合うだけの大変な取捨選択をしてきたかというと、結局何のことはない、最初と同じで人間はその後も少しずつ森を捨ててきただけなんじゃないかと私には思える。(中略)私はアフリカを西から東へ横断しながら、森に棲むゴリラやチンパンジーに会ってきたわけだけど、結局彼らも森と一緒に消えていこうとしている。でも、彼らは私たち人類にとって、もしかするととても大切な暗示なんじゃないかな?彼らが滅びるときが、森の人が死に絶えるときが、森が本当に消えるときなのでは?そして森が消えるとき、もうこれ以上失うものがない、つまりそれ以上得るものがないとき、人類がどうなるのか。(後略)」
· リーブルビルで聴いたフレンチレゲエから触発されてアルバム「フローズン・ローゼス」収録の「流星の夜」を作ったそうです。
2000 カイロ〜ルクソール
三菱自動車とのタイアップでカイロ、ルクソールを旅行。
【主な旅程】
2000.
1.3〜1.11 |
カイロとルクソール(エジプト) |
【発表媒体】
雑誌「エスクァイア」(エスクァイアマガジンジャパン) 2000.4号(フルカラー、8ページ)
文: 小野綾子、写真: 関原彰、監修: 森久志
ビッグコミックスピリッツ 2000.3.6号
【メモ】
· 2000年の年明けすぐに1週間ほどエジプトを旅行。エスクァイアとビックコミックスピリッツの2誌が旅行記を掲載。この年はパリダカのゴールがカイロだったこともあり、三菱自動車パジェロとのタイアップと言う形でエジプト旅行をすることになったようです。
· エスクァイアのほうは、カラー写真15枚ほどを載せた、8ページの記事。内容は行きの飛行機のロンドンでのディレイの話、王家の谷の散策のこと、ルクソールの王妃の谷散策のこと、鳩料理を食べた話、ベリーダンスを見た話、ハンハリーバザールでの買い物の話などを掲載。(管理人の個人的感想だが...各所の観光ガイド程度の紹介はあるものの、いまいち、何しに行ったのかがよくわからないレポートで、ただただゆく先々でのユーミンのヒーローっぷりを讃えた感じ。「そこはユーミンファンが感じればいいところ」ということがわざわざ書かれていて、FC会報ならいいが「エスクァイア」の読者ってこんなのが読みたいのだろうか?と思ってしまった^^;別にエジプトでなくてもいいような「パジェロ&ユーミン」のPR記事。ただ、ユーミンの名言はいろいろ拾っていてそこは面白い。)
· (ビッグコミックピックスピリッツの方は未読&期待。)
2001 東欧
雑誌「ソトコト」の取材で東欧3か国を旅行。
【主な旅程】
2001.
4.14〜25 |
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4.14 |
パリ |
4.15 |
トランシルヴァニア(ルーマニア)「さぁー、起きなさいドラキュラ伯爵」 ブカレスト空港からバスで5時間。 ドラキュラ伝説を訪ね、ドラキュラ公が生まれた町、そして魔女裁判で有名なシギショアラへ。 ドラキュラ公の生家にたどり着いたときは既に薄暗く、石畳にしとしと降る雨に晩鐘というぴったりの雰囲気だったそうです。 幼いながら魔女裁判を日々目撃していたドラキュラ公が過ごした部屋で優雅に食事をとる。 また、ドラキュラ公が残酷の限りを尽くした土地、ブラショフにも滞在。 ルーマニア観光・総務局のサイトで一部読むことができます。
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4.16 |
ブラン城(ドラキュラ城)を訪れた後、ブカレストへ移動 ブカレスト(ルーマニア)「知る人ぞ知る不老の大研究都市」 国立老人医学研究所 アナ・アスランセンターへ。52年設立、世界の要人が心と身体の不老不死を求めて訪れた研究施設。 巨大な贅を尽くした宮殿のような施設で、ケネディと毛沢東が同じ敷地内で過ごすこともあったとか(ほんまかい!?) 89年の東欧革命ですっかり廃れてしまったが、01年未だ盗人と野犬が蔓延る治安の悪いブカレストで復興を開始。
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4.17 4.18 |
ブタペスト(ハンガリー)「湯に煙るブダとペスト。」 古い街並みが残る街。到着してユーミンは思わず「パリとかの比じゃないくらいにきれい」。 ブタペストは湯治の町。人々はカフェに寄るようにひとっ風呂浴びるとか。 ただし、運動療法やマッサージ、薬効水蒸気吸引など”メディカル”ば雰囲気も漂っているそうです。 ドナウ川沿い、アールヌーヴォー建築の浴場があるゲッレルート温泉ホテルに宿泊。 レストラン・グンデルでハンガリー料理と貴腐ワイン「トカイ」を堪能。 ユーミンはヘレンドの食器を購入。この日から大切にキャリーバックを引いて歩いていたそうです。 |
4.19 4.20 |
プラハ(チェコ)「錬金術を夢見る街」 プラハも美しい街。ユーミン曰く「プラハが京都ならブタペストは金沢だ」。 この頃にプラハは毎年インフレが加速し、美しい街並みが映画撮影に使われハリウッドスターが集う景気の良さそうな雰囲気。 近代科学以前の錬金術や不老不死の万能薬、土塊から造られたゴーレムなどの伝説が遺る街でもある。 プラハ城や、ストラホフ修道院図書館、ボレック・シベック「ARZENAL」などを訪れる。 |
旅程は「YUMING REAL EYES v.13」より
【発表媒体】
雑誌「ソトコト」(ソトコト・プラネット) 2001.8号「東ヨーロッパの黄泉を訪ねて」(フルカラー、18ページ)
文: にむらじゅんこ、写真: Kai Juenemann、ファンションエディター: 祐真朋樹、ヘアメイク: 浅井昭彦(e.a.t.)
【メモ】
· 雑誌「ソトコト」の取材で東欧3か国を取材(オランダのアムステルダムへも行っているようですが、「ソトコト」の記事範囲にはない)。
· 全体的なテーマとしては「黄泉」とあるように東欧に伝わる不老不死への拘りや伝説が現代の各都市にどう息づいているかを尋ねるようなものでした。
· 18ページにわたる大特集は、ユーミンによる紀行ではなく、かなり現地の情報や歴史にフォーカスした内容。ボリュームのある文中にユーミンはほとんど登場せず、どちらかというと完全にビジュアル担当に徹しているという感じ。この写真がどれも大きく美しい!(あくまで管理人評ですが、「エスクァイア」のエジプト特集の後に見ると、この「ソトコト」やり方のほうが、十分に読者のニーズに応じられるし、その裏打ちの上で美しく掲載された写真によるユーミンのブランド感を読者に与えられる気がするので、大正解という気がします。)
2002 香港、上海〜蘇州〜杭州
香港公演のPRおよび雑誌「ソトコト」の取材で中国・江南を旅行。
【主な旅程】
2002.
3.21〜29 |
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3.21-23 |
香港 5月の香港公演のPRおよび雑誌の取材。 |
3.23-24 |
中国・江南へ移動し「ソトコト」取材のお茶を巡る旅へ
上海 グランドハイアット・上海 浦東新区の金茂大厦(ジンマオタワー)53F〜87Fにあり、内部には33F分のらせん状の吹き抜けが。 内装はチャイニーズアールデコで統一されている。 上海バンドを見下ろす、チャイニーズ・プレジデンシャル・スイートでの一杯目。
豫園の上海湖心亭茶楼や、南京西路 恒隆広場 PLAZA66、衡山路の唐韻茶房など、 この頃、息を吹き返しつつあった茶館を取材。このほか上海市内の12の茶館が紹介されている。
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3.25-28 |
蘇州(そしゅう/スージョウ) 蘇州夜曲で有名な運河が走る水の都であり、庭園の都でもある。 雨音がどう響くか、中国庭園はそこまで拘って造られているそうです。 丁度、しとしとと小雨が降る中、ユーミンは寒山寺や虎丘の史跡を散策。
聴風園の中にある伝統芸術のアトリエ集合体といった「楽茶軒」を訪問。洞庭碧螺春茶で一服。
東山(トンシャン)の碧螺春茶(ビールオチュンチャー)の茶農家で茶摘みを体験。 碧螺春茶は500gの製造に新芽を8万個も必要とする貴重品。
宜興(イーシン)で紫砂茶壷の工場とアトリエを見学。宜興では子供も茶壷を作るそうです。 「ロイヤルコペンハーゲンやヘレンドもいいけど、宜興紫砂にはかなわないわよね。」ユーミンは茶器にも凝っている。
甪直(ルージー)の茶館・夢里水郷でお茶を楽しみに。 甪直はすっかり都会になってしまった蘇州と違い、清や明時代の素朴な水郷の佇まいが今も残っている。
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3.28-29 |
杭州(くいしゅう/ハンジョウ) 龍井茶の故郷、そして龍井茶を育んだ銘水の湧く杭州へ。 杭州四台銘水にかぞえられる龍井泉(ロンジンチュアン)と虎跑泉(フーパオチュアン)を訪ねる。 虎跑泉の敷地内「虎跑茶屋」で龍井茶を頂く。
最高級の龍井茶を育む梅家塢(メイジャーウー)村で茶葉の窯炒りを見学。
西湖(シーフー)のホテル杭州香格里拉飯店。西湖はその幻想的な風景があまりに有名な湖。 西湖の周りにも「大彿茶荘」や「対極茶道」など龍井茶を楽しむための茶館がいくつかある。
29日夜、上海へ戻る
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黄山(こうざん/ファンシャン)...ユーミンは訪れていないかも 七十二峰からなる世界遺産にも指定されている景勝地。黄山毛峰という銘茶の産地でもある。 道教の四大聖地のひとつ斉雲山(チーユンシャン)へ。 黄山パートは黄山毛峰だけでなく、文化人が茶とともに重要視した書と文房具に着目。 今回の中国茶の旅のナビゲーターの葉氏は書家でもあり、ユーミンとの旅の記念に書を作成してくれる。 斉雲山や安徽には書道具の工場やアトリエが多くある。 |
旅程はYFC NEWS vol.1より
【発表媒体】
雑誌「ソトコト」(ソトコト・プラネット) 2002.7号「松任谷由実の中国緑茶の旅」(フルカラー、27ページ)
ナヴィゲーター: 葉栄枝、企画&写真: 菊池和男、文: ソトコト編集部
【メモ】
· 昨年に引き続き雑誌「ソトコト」の取材で今度は、中国・江南地方で緑茶を訪ねる旅に。記事としては前年の東欧特集を超えるボリューム。
· 正隆氏とのお茶の時間を大切にしているというユーミン。この習慣はこの頃すでにあり、中国茶についてはハマって1年の「茶迷家」とクレジットされています。
· 「お茶はリキッドにあらず」というユーミンの言葉が示すように、特集は各地の銘茶と茶気のある人々(この特集では「茶気」とは浮世離れした気質や、変人気質と定義されています。)、文化や宗教、哲学とのかかわりを紹介。東欧特集と同じで、ユーミンによる紀行はほぼなく、やはりビジュアル担当という感じです。
· カメラマンであり、ユーミンの中国茶の先生でもある菊池和男氏とはこの後も9月に銀座資生堂ビルで行われたワードフライデイというイベントで中国茶について対談したり、翌年横浜ランドマークタワーで行われた「ユーミンのシャングリラ旅行記」という写真展では「桃源居」というお茶を楽しんでもらうスペースも出展。ちなみにシャングリラII香港公演ツアーの特典の茶器セットも桃源居プロデュースです。菊池氏によると、この旅の道中、ユーミンはいつもマイクロバスの一番前に座り、熱心にメモを取っていた努力家な一面が印象的だったとのこと。
· 現地で飲む中国茶はガラスのコップに何やら葉っぱがどさどさと不躾に突っ込まれているし、葉っぱが邪魔して飲みにくい...という印象もなくはないのですが、この特集を読むと認識を改め、茶館を訪れゆったりとした時間の中で味わってみたいという気になります。
2002 北欧
テレビ朝日の特番「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅」のロケで北欧3国を旅行。
【主な旅程】
2002.
7.31〜8.14 |
北欧三国を旅行
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ヘルシンキ(フィンランド) アテネウム美術館で音楽の神様「ワイナモイネン」の神話に触れる ヘルシンキフィルの指揮者レイフ氏宅で音楽とワイナモイネンについて対談、「ひこうき雲」を弾き語り
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サボンリンナ(フィンランド) オラヴィ城で国際オペラフェスティバルを鑑賞 森の中で湖から5千年前の木を引き上げ、ロッジを造っているエサ氏宅に滞在 ユーミンも巨木の引き揚げ作業を手伝う
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ロバニエミ(フィンランド) 白夜列車に乗りロバニエミへ サンタクロース村を訪ねる ソダンキュラ宇宙物理研究所でオーロラの研究者を取材 科学者にとっての神話の持つ意味について対談
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ラップランド(スウェーデン) 原住民族サーメの文化伝承者と伝統歌唱法ヨイクを取材 サーメ文化には迫害を受けて耐え忍び繋いできた歴史がある
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スバルバール諸島(ノルウェー) 白夜の地、今も氷に閉ざされた人の痕跡のない太古の姿を留める場所 水の音、アジサシの音、氷河が崩れる音・・・ 何億年も鳴り響く自然の音を聴く |
【発表媒体】
テレビ朝日「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅〜万音連響 万象連鎖〜」(2003.3.15放送、約110分)
監督: 龍村仁、撮影: 赤平勉、音声: 柴田幸夫、ヘアメイク: 山田信之介、スタイリスト: 金沢見映
【メモ】
· 2003年放送のテレビ朝日の特番「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅」のロケでフィンランド、スウェーデン、ノルウェーを旅行。ロケは2002年の逗子コンサートのあと行われました。番組は前編:北欧、後編:冬のナミビアロケで構成されています。
· 北欧に伝わる神話「カレワラ」や音楽の神様「ワイナモイネン」が現代にもどう息づいているかを民族文化伝承者だけでなく、音楽家や楽器職人、科学者など様々な人を通して取材。至る所にユーミンがつねづね語っていた音楽との向き合い方やその意義と重なる部分があるところが興味深かったです。管理人個人的にはソダンキュラの物理学研究所に「あくまで科学が解き明かしているのはこの世界のほんの一部である」ということを忘れないため、科学者の膨満な想いを戒める意味でカレワラの絵が飾られているということや、研究者の方が仰っていたカレワラは科学者にとっても生きることの意味を与えてくれる存在:「私たちは独りではなく、自分の行動が必ず他にも影響している、科学を追求する意味もそこにある」というお話に感銘を受けました。
· この旅行はこの年のアルバム「Wings of winter, Shades of summer」に大きく影響を与えたようで、シンセの音源ですが、カレワラに登場する楽器カンテレも使用されています。ジャケット写真もヘルシンキで撮影されました。テーマ曲「Northern Lights」はこの北欧旅行をきっかけに作られた曲だそうですが、後述のナミビア旅行で感じたことにも通じるところがあるのが興味深いところ。
2002 ナミビア
テレビ朝日の特番「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅」のロケでナミビアを旅行。
【主な旅程】
2002.
12.14〜12.28 |
ナミビア各地を旅行
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香港、ヨハネスブルク(南アフリカ)を経由してウィントフーク(ナミビアの首都)へ 生命の源となるアミノ酸を地球に持ち込んだとされる隕石が街のあちこちにある
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コールマンズコップ ダイアモンドラッシュの時、ヨーロッパ人たちが遺していった廃墟や歴史記念館を取材 この街は1950年代より放置され、砂に埋もれつつある
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ナミブ砂漠:サンドウィッチベイ 世界最古の大地、刻々と姿を変える砂丘 ナミビア大学の植物学者のナビゲートで最初に地上に上がった地衣類やウェルウィッチャーを観察 ウェルウィッチャーは海からの霧を葉の表面から取り込み自身の生命を繋ぎ、 自身の葉の下に他の生命が生きられる環境を提供することで、他の生命が地上進出する上でのコロニーとなったそう 個体によっては3000年生きるというこの生物は、良しという環境が整うまで50年近く発芽しないこともある 「ウェルウィッチャーの生き方は私たち人間に貴重な示唆を与えてくれます。 過酷な環境で生き残るには急ぎすぎず耐えることを知らなければならない。」
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ナミブ砂漠:スケルトンコースト(骸骨海岸) 海風で難破船や動物の遺骸が打ち上げられる海岸 10万匹のオットセイの群れや打ち上げられた船の残骸を見る 漁礁を煮しめたようなクサーイ海岸だったようです ナミブ砂漠は海に隣接している世界的にも珍しい砂漠。海風で煽られ400m級の砂山が刻々と形を変えている。
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トゥワイフルフォンティエン(幻の泉) 2万年前のブッシュマンの壁画を見る 生物もまばらな地の果てのような場所だが、壁画には沢山の動物が描かれている 木のうろに横になり、鳥の音、木々の音、風の音、様々な音を聴く
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ナイナイ・ブッシュマン保護区ツムクェ村 裸で暮らすブッシュマンの人々を取材。 ユーミンはダンスで歓迎してくれたおばあさんたちを見て春に亡くなったひでちゃんを想い出していました 子供たちとはダンスバトル?ムーンウォークをやって見せたら「教えろ教えろ」とブームになってしまったそうです 彼らにはこの地で法律や規則に頼らずとも協調して暮らしていくための英知としてダンスのリズム感が体に備わっているそう |
【発表媒体】
テレビ朝日「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅〜万音連響 万象連鎖〜」(2003.3.15放送、約110分)
監督: 龍村仁、ヘアメイク: 山田信之介、スタイリスト: 金沢見映
【メモ】
· 2003年放送のテレビ朝日の特番「地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅」のロケでナミビアを旅行。番組は前述の夏の北欧旅行を前編に、途中母校のチャペルでのロケを挟んでこの冬のナミビア旅行を後編とした構成でした。前回の夏のロケの後、アルバム「Wings of winter, Shades of summer」を完成させ、そのプロモーションが済んだあと、この旅に出たようです。旅の後はすぐNYへ行き「シャングリラII」の打合せ、その後苗場コンサート準備とツアーが無かったとはいえなかなかのハードワークです。
· ナミブ砂漠は生命が最初に地上進出を果たしたと言われている場所、ナミブとは「神の怒りの大地」という意味だそうです。後編は太古の昔、この「神の怒りの大地」に上陸した生命がどのようにその命を繋いできたか、現地の植物や人々への取材を通しその英知に触れるような内容でした。
· 対照的に”その英知に学ばないものにとってはまさにここは「神の怒りの大地」なのです”という前振りで番組最後に紹介されたのがコールマンズコップ。ここは1900年代のダイアモンドラッシュの時に一獲千金を夢見たヨーロッパ人が建てた街ですが、既に廃墟となって久しく、当時賑わったであろうボーリング場やオペラハウスは砂に埋もれようとしています。ただ、この街に否定的になるのではなく、この厳しい地に遠い故郷の街並みを模ったことに彼らの郷愁の想いを感じるというユーミン。「音楽っていろいろ形は違うけれど郷愁が運んでくるんじゃないかなっていつも思います。」この言葉のバックに異星への、そして過去生からの郷愁を歌った「Northern Lights」が流れているという最高のエンディングでした。
2006 シチリア
雑誌「エクラ」の取材でイタリアのシチリア島を旅行。
【主な旅程】
2006.10.21-11.1
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タオルミーナ シチリア東海岸にある海を見降ろす街。ギリシャの神々が人間の姿を借りて暮らしを愉しんだ神話の舞台だそう。 この街は紀元前4世紀に誕生、今も山の中原に石畳の道が続き、陶器の店、珊瑚の店、海の幸レストランなど小さなお店が軒を連ねる。 ピンク色の壁は夕陽に染まるとなんとも美しい。 エトナ山は今も活動を続けており、夜空には赤い帯が浮かぶ。「まるでドラゴンの舌ですよ」 映画「グラン・ブルー」はここで撮影されている。 ちなみにユーミンは「デルフィーヌ」をこの風景を元にして書いたことを思い出したとか。 「時空を超えて懐かしい未来を今、味わっているのかもしれませんね」
ギリシャ・ローマ劇場 紀元前3世紀、ギリシャ植民者によって建設された半円形の劇場。現在の姿は2世紀に改修されたものだそう。 ギリシャ時代は劇場は、心身を癒すための施設だったそう。医師は喜劇や悲劇を処方したとか。 イオニア海を望む客席には、まるで歓声のような風が吹きわたる。
イオニア海 ユーミンは美しいイオニア海でボートを愉しむ。
サントドメニコ パレス ホテル 15世紀の修道院をそのまま使用した5つ星ホテル。 中庭を巡る回廊や、エスト山を背景にした庭園が美しい。 「何がそんなにいいのか、言葉で説明するのはむずかしいけれど・・・。 空気かな。キリスト教系の学校に通っていたせいか、漆喰とか石の匂いが懐かしかったし、 天井の高い廊下の響きが、妙に落ち着くんです。」
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パレルモ シチリアの州都。都会然とした新市街と紀元前8世紀からの歴史を持つ旧市街がある。 パレルモはフェニキア人によって拓かれて以来、様々な勢力に支配されたため、歴史的建造物は様々な文化がかわるがわるリノベした独特なものになっている。それは豊かな農地により栄えた貴族や豪商が贅を尽くした絢爛豪華なものとなっていた。
クワットロ・カンティ 「四つ角」という意味の旧市街にある交差点。 四隅に四季を意味するバロック風建物の外壁がある。
ガンジ宮 ヴィスコンティ「山猫」の舞踏会が撮影された邸宅。 豪華なシャンデリア、大理石の床、鏡の壁面、天井画、、、 「本当に見事ですよ。見事な退廃。青の鏡の間にいると、いくつもの亡霊が、ドレスアップした貴族の男と女たちが、 私のそばを通りすぎていくような気がしました(笑)」
ビラ・イジエナ・ヒルトン・パルレモ ユーミンが宿泊したリバティ様式の老舗ホテル。
海軍提督の聖母マリア教会 異文化が共存共栄するパルレモを象徴する建造物。
モンレアーレ大聖堂 パルレモからくるまで30分ほどの街モンレアーレにある1174年に建てられた大聖堂。 「あの大聖堂に、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず、あ、これは曼荼羅だって思ったの。」 「人間が神に求めるイメージは、どの宗教も変わらない、共通するんですね。 とりわけ金の輝きは、人種も文化も超えて一瞬にして畏敬の念を抱かせる、すばらしい装置だと思う」 |
【発表媒体】
雑誌「エクラ」(集英社)2007.05号「松任谷由実 光と影の島 シチリアに遊ぶ」(フルカラー18ページ)
撮影:萩庭桂太、ヘア&メイク:山田信之介、スタイリスト:渡辺いく子、取材・文:岡本麻佑、コーディネート:Manami Ikeda
【メモ】
· 雑誌「エクラ」の創刊宣言号のイタリア特集「すべての快楽はイタリアにあり」のなかのPART1「松任谷由実 光と影の島 シチリアに遊ぶ」の取材でイタリアのシチリア島を旅行。ユーミンはナポリより南のイタリアに来るのは初めてだったそうです。「ブルーでした、シチリアの色は。ほんの少しスモーキーな、独特のブルー。街で見かけた尼さんがその色の僧服を着ていて、ああ、今回の旅はこの色だと思ったの。」
· どちらかというと秘境を多く旅してきたユーミンのリゾートへの意識が大きく変わった旅だったようです。「シチリアの旅が、いきなりこんな本格的なリゾートから始まるとは、正直、想像もしていなかったの。実は私、せっかちだから、リゾートって好きじゃなかったんです。南の島でぼうっとするなんて、絶対にできないと思ってた。なのに、ふと気づいたら、何も考えていないんです。何も考えずに、ただただ楽しいの、毎日。だからショックでしたね。こんな自分がいたなんて。」「結局、私自身がリゾートというものの価値がわかるようになってきたのかもしれない。ここにきて人生の見晴らしがよくなってきた、という感じですね。」「リゾートのよさって、やっぱり人生を闘ってきていないと、わからないと思うんです。(中略)若いころは外にいる敵と競り合うだけですむけれど、あるときから、本当の敵は自分の中にいることに気づきますよね。その内なる敵と戦って、ふと我に返ったころ、リゾートのよさがわかるんですよ、きっと。」「50の声を聞いて人生、そろそろ最終コーナーかと思っていたら、とんでもない。まだまだあと2コーナーくらい残っていましたら(笑)。旅を本当に楽しめるのは、これからですよね、きっと。」
2008 アンダルシア
NHKの番組「探検ロマン世界遺産」のロケでアンダルシア地方と対岸のモロッコを旅行。
【主な旅程】
2008.12.
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セビリア(スペイン) ペーニャ・フラメンカで地元のフラメンコを見たユーミンはその歌と踊りに強烈な”血のにおい”を感じる それはなぜか?これがこの旅の大きな問いになる
世界三大大聖堂の一つ世界遺産セビリア大聖堂を訪れる 約120年かけて建てられた荘厳かつ豪華絢爛なキリスト教の聖堂だがもともとはイスラム教のモスクだった イベリア半島は800年ものあいだイスラム教徒とキリスト教徒が奪い合いを繰り広げていた (西暦711年ウマイヤ朝による西ゴート王国滅亡〜1492年スペイン王国によるグラナダ王国の滅亡まで) この時代のイベリア半島をイスラム教徒側の呼び方で「アルアンダルス」と呼ぶ
アルカサル(スペイン王室の宮殿)を訪れる キリスト教徒が造った宮殿だが、その内部はイスラム様式、イスラム芸術で埋め尽くされていることを知る なんとこの宮殿を造らせたキリスト教徒のはずのペドロ1世はイスラム文化のファンだった!
イスラム教徒が支配した「アルアンダルス」時代は800年もあったわけだが、 その間には意外にもイスラム教とキリスト教の友好的な”混じり合い”の時代があったというのだ その時代に奏でられていたはずの音楽を聴いてみたくなったユーミンはジブラルタル海峡を挟む対岸の街テトゥアンへ
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テトゥアン(モロッコ) テトゥアンには「アルアンダルス」を生きた人々の末裔が暮らしており、彼らはその時代の音楽を伝承している。
アルアンダルス音楽を伝承している楽団「アル・アンダルス・ドゥ・テトゥアン」を取材 歌と演奏を聴かせてもらう
アルアンダルスの後、彼らの先祖はキリスト教徒によりアンダルシアから追放されこの地に追いやられた ユーミンの求めた音楽は、彼らの誇りと望郷の想いと共に伝承されていたのだった 追放された人々が再びアンダルシアに戻ることはついぞなかった 彼らは対岸にアンダルシアを望む旧市街墓地に眠っている 「”血のにおい”の中には別々の民族、宗教が出会ったときに生まれる悲しみや切なさが含まれているのかもしれない」
アルアンダルス音楽と現代のフラメンコの間にはまだ何かギャップがあると感じたユーミンは、 アルアンダルス音楽のその後を探し求め、アルアンダルス終焉の土地、グラナダへ
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グラナダ(スペイン) ここは最後までイスラム教徒がキリスト教徒に対抗した土地
イスラム王朝が栄華を極めたアルハンブラ宮殿を訪れる やはりここの素晴らしイスラム建築もキリスト教徒に愛され破壊を免れていた
グラナダではイスラム教徒追放後にこの地に住み着いた民族ヒターノの人々を取材 彼らは流浪と芸能の民、キリスト教徒から迫害を受けながらもその歌と踊りは次第にアンダルシア地域の人々を魅了していった やがてその歌と踊りは「カンテホンド」と呼ばれ、アルアンダルス音楽と”混じり合い”ながらフラメンコへと洗練されてゆく
アルハンブラ宮殿 アルヒーベス広場を訪れる ここは1922年にフラメンコとの夜明けと呼ばれる「カンテホンド」コンクールが開催された場所 カンテホンドはヒターノに由来する音楽だが、このコンクールの優勝者はヒターノではなかった 「音楽なんてそんなものだ 音楽は民族や宗教の壁を軽々と乗り越え人を惹きつける いい歌だったら誰だって歌いたくなる だからこそフラメンコも生まれ受け継がれてきたのだ」 |
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旅の終わりに、フラメンコの生きる伝説 ペドロ・ペーニャ 一家のフラメンコパーティーを取材 ペドロ一家はこのパーティーを通じてフラメンコを伝承してきた ペドロ氏の息子はこれまでになかったピアノ・フラメンコづくりに挑戦し、インターネットで世界中に配信している フラメンコは現代もなお、新たな”混じり合い”を続けている |
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【発表媒体】
NHK「探検ロマン世界遺産」(2009.3.28放送、約70分)
ディレクター: 大山健一、山本浩二、撮影: 平田友行、制作統括: 浦林竜太、鶴谷邦顕
【メモ】
· 2008年放送のNHK「探検ロマン世界遺産」のロケでスペイン・アンダルシア地方とモロッコのテトゥアンを取材。
· 2005年よりユーミンは同番組のオープニングとエンディング曲を担当。「あなたに届くように」と「Flying Messenger」はこの番組のために描かれた曲でした。最終回は「ユーミンXアンダルシア」と題し満を持してユーミンがレポーターとして登場。時期としてはアルバム「そしてもう一度夢見るだろう」制作のうちユーミンがやる作業をほぼ終えた後だったようです。
· セビリアで見たフラメンコからユーミンが強烈に感じた”血のにおい”。なぜそれを感じるのか?それが何から来るものなのか?番組はその答えを探し求め各地を巡るという構成でした。番組ではレコンキスタでアンダルシアを追放されたイスラム教徒と追いやった側ながら相手の文化に魅了されていたキリスト教徒、少し後の時代に迫害されながらもその芸能をアンダルシア地域に根付かせたヒターノを紹介、様々な民族の文化や想いから醸成されていった結果生まれたのがフラメンコであり、それこそが”血のにおい”の正体ではないかというのがひとつの答えのようです。番組の中でフラメンコ専門家が「さまざまな民族が通り過ぎ、すべての民族がこの地に何かを残しました。それぞれの民族の音楽文化の中にある最良のものをフラメンコは吸収しました。」とおっしゃっていたのが印象的でした。
· 番組は世界遺産を巡る紀行・教育モノという感じでしたが、この回はアル・アンダルス・ドゥ・テトゥアンの演奏やペドロ氏一家のフラメンコ演奏も長い尺で放送。音楽番組としてもたいへん見ごたえのある物でした。
· 番組のエンディングでは春に発売されるアルバムから先行して「ブエノ・アディオス」が流れました。公式サイトのバイオグラフィによるとユーミンはこの旅の後そのままLAに行ったようですが、アルバムの作業でしょうか。詳しい日程はよくわかりません。
2010 ワルシャワ
雑誌「家庭画報」取材でワルシャワを旅行、ショパン縁の場所を訪ねる。
【主な旅程】
2010.
4.3〜4.13 |
ワルシャワ(ポーランド)ショパン縁の地を巡る |
「家庭画報」が選ぶショパン楽曲 |
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ワルシャワ王宮広場 |
ワルシャワ11月蜂起鎮圧直後に作られた「革命」 |
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ショパン博物館(旧ワルシャワ音楽院) |
ワルシャワ時代の「ピアノ協奏曲第2番ヘ短調」 |
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ショパンのサロン ワルシャワ最後の住居 ヴィジトキ教会 少年時代にオルガンを奏でた 聖十字架協会 ショパンの心臓が眠る |
個の宮殿に暮らした頃作られた初期作品 「ノクターン第2番変ホ長調」「ワルツ第10番ロ短調」 |
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ショパンの生家 ジェラゾヴァヴォラ |
マズルカ:農民たちの民族舞踊「マズルカ第5番変ロ長調」 |
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ユーミンお気に入り「ノクターン第20番嬰ハ短調長」 |
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【発表媒体】
雑誌「家庭画報」(世界文化社) 2010.7号 「松任谷由実といくショパン紀行〜本誌が選んだ名曲とともに〜」(フルカラー10ページ)
取材・文: 池田愛美、撮影: 武田正彦、スタイリング: 渡辺いく子、ヘアメイク: 山田信之介、着付け: ウルシュラ・マフ
【メモ】
· 雑誌「家庭画報」が企画したショパン生誕200周年記念「松任谷由実といくショパン紀行〜本誌が選んだ名曲とともに〜」の取材でワルシャワを旅行。
· ユーミンがショパン縁の場所を訪れた麗しい写真とそのシーンにあう「家庭画報」お奨めのショパン楽曲を紹介。このお奨め楽曲は、この号付録CDに収録されており、曲とともに楽しめる構成でした。特集は2部構成で、第1部がユーミンinワルシャワ、第2部はショパンが活躍したフランス特集。特集全体で約30ページほど、その中の10ページがユーミンパートでした。
· A3変形の大判に見開きで大きく写真が掲載されています。中でもその美しさと意外さに圧倒されるのが、ショパン博物館の地図で飾られたトンネル状の部屋にたたずむ着物姿のユーミン。お気に入りの燕と雨のきものに柳の帯。他にもロココ風装飾の中に一人たたずむグレイの着物姿のユーミンのカットがなんとも不思議で美しいです。
· 冒頭の「ショパンを愛す ―― 松任谷由実」というリードより。「ピアノを習っていた子どもの頃、最も弾き親しんだのがショパン。それまではいかにも練習曲然とした曲ばかり弾いていたのが、ショパンによってようやく美しいメロディに出会えたという感じですごくうれしかったのを覚えています。美しくてロマンティック。特に『雨だれ』は子ども心にもくっきりと印象に残ったのですが、ある日ふと、それだけではないと気づいたのです。ショパンがどんな気持ちで作ったのか。ほの明るく、そして暗いこの曲には、大人になって初めてわかるある種の複雑な心の襞のようなものが込められているのではないか、と。」その正体についてユーミンは、パリで異邦人として生きたショパンの望郷の想いと、彼を育んだポーランド民謡の存在をあげています。ロシア帝国の支配に対抗したポーランド蜂起に加わっていたショパンは、その失敗により祖国を追われることになりますが、その後もロシアやドイツの支配下にあったポーランドに生涯帰ることはかなわなかったそうです。
· ユーミンの公式サイトではオーストリアにも訪れたような情報がありますが、やはりこの本誌の特集には含まれていないようです。ちなみにこの年の冬にはNHKのショパン生誕200周年記念番組にもユーミンが出演しています。
2012 アイルランド
NHKの番組「ユーミンのSUPER WOMAN」のロケでケルト芸術文化の研究者・鶴岡真弓とアイルランドを旅行。
【主な旅程】
2008.6.23 - 7.3
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ロンドンからアイルランドの首都ダブリンへ |
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聖パトリック教会 1191年に建設されたアイルランド最大級のカテドラル アイルランドにはもともと自然崇拝的な宗教があったが、五世紀前半に聖パトリックがキリスト教を布教 彼は「三つ葉のクローバーを使い」キリスト教徒とケルト古来の宗教との共通点を示しながら穏やかにキリスト教へ導こうとした
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クロンマクノイズ修道院 中世アイリッシュケルトの代表的な修道院 「ケルト十字架」群を見る キリスト教の十字架とケルト信仰の太陽とが融合したケルト独自の石の十字架 複雑な文様には聖書の物語とケルト信仰のシンボルが象られている
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ダブリン大学トリニティ・カレッジ 鶴岡氏の留学先 ロングルームと言う細長い図書館へ ジェダイの文書館のモデルにもなった600万冊以上を所蔵する大変美しいライブラリー 聖書写本芸術の最高峰「ケルズの書」を見る ケルズの書には日本でも神紋としてよく見る三巴の渦巻文様が施されている この三巴がいつどこで生まれたのかは分っていないが、日本人も古代に大陸からこれを取り入れている
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聖バーソロミュー教会でコーラスグループ「アヌーナ」の歌声を聴く アヌーナでは古いケルト楽曲を誰でも楽しめるように編曲している ユーミンはこれまでいろいろな旅先で歌を聴いてその懐かしさ感じてきたが、 それは今日、ケルト音楽を肉声で聴くための準備だったような気がすると語っていました
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キルディアの聖ブリギッド大聖堂へ ダブリンから南西へ50km、キルディアにある大聖堂 聖ブリギッドは聖パトリックと共にこの地にキリスト教を広めた女性 古来のケルトにとっては異教ながらも深い信仰を得ている 彼女は480年ごろ男女共同の修道院を始めた 男性主体、婚姻の禁じられたカソリックでそれは世界的にも珍しい挑戦だった 彼女への敬愛は今も一年に一度、冬の終わりに「聖ブリギッドの十字架」を飾る行事としてこの地の人々の生活に息づいている この十字架の形は「世界は永遠に再生する」というケルトの願いとキリスト教とが結びついたもので、藺草で作られている
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クレア地方にある聖ブリギッドの泉へ ケルト・キリスト教文化では聖なる泉から湧く水への信仰がある。 泉につづく祠の中は聖ブリギッドに救いを求め世界各地から届いたメッセージでうめ尽くされている。 「こんなにたくさんの問題を抱えている人が同じ方向を向いて祈ると孤独が癒される。 こういう場所からブリギッドが本当にいると信じられる」 「ここが目的地なのではなく、そこに向かわせるプロセスに癒す力がある。そこに向かう自分が自分を癒していく。 行こうと思ったときから、もう、癒しが始まっていますね。」
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クロンマックズ修道院、西の果てモハーの断崖へ 果てにありて、スーパーウーマンとは何か、そしてこれからのお互いの旅について語り合う。 「最初からスーパーな場所にいるということじゃなくて、スーパーなところに行くという意志を明確に持って 邁進していこうというそのWill、意志だと思うんですね。聖ブリギッドも彼女の強い意志で聖女になっていった。 そして皆に聖なる泉、きらきら輝くものを届ける。やっぱり旅を続けてゆくのがスーパーウーマンなのではないか。」 「意志を持って、常に次なる場所を目指していきたいですね。」 |
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【発表媒体】
NHK Eテレ「ユーミンのSUPER WOMAN」(2012.7.27, 8.3放送、約60分)
撮影: 佐藤努、制作統括: 原田秀樹、演出: 加藤英明
鶴岡真弓著「鶴岡真弓対談集 ケルトの魂: アイルランドから日本へ」(2019, 平凡社)にも番組から書き起こし、加筆したダイアローグが掲載されています。
【メモ】
· 2012年放送のNHK「ユーミンのSUPER WOMAN」のロケでアイルランドへ。この番組は各回30分の旅番組で、ユーミンが各界で活躍する女性とコンビで興味のある場所へ訪れるというもの。計12回が放送されました。この回のパートナーはケルト芸術文化研究の第一人者・鶴岡真弓。彼女は若くしてアイルランドに渡りケルト芸術文化を研究、それにとどまらず、ユーロ=アジア世界の文化芸術や交流史なども研究対象としています。放送は2回に分けて行われ、前編はケルト文化とキリスト教の融合と、日本文化との不思議な共通点。後編はスーパーウーマンとして聖ブリギッドに注目。
· とにかくどこも映像が美しいのですが、圧巻だったのは前編のトリニティ・カレッジの図書館。ユーミンも思わず「宇宙だ!」「声なき声が充満しているような。チューニングがあったりすると、これだって求めていた本の場所に引き寄せられるような。この本は私を待っていたみたいな。」 明確なソースはないのですが間違いなくアルバム「宇宙図書館」のアイディアにつながったのではないかと思える場所でした。また、後編のブリギット大聖堂のシーン、雨でグレイの陰影が色濃くなる石積みも美しかったです。
2012 オーストラリア
雑誌「美ST」の取材でオーストラリアへ旅行。
【主な旅程】
2012. 8.21-27
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ウルル・エアーズロック 周囲9.4km、高さ348mの世界最大の一枚岩。 ユーミンはここを聖地としてきたアボリジニについて知るためにブルース・チャトウィン『ソングライン』を読んだそう。文字を持たない彼らは、歌で自分のテリトリーを決めていたそうで、この歌の道(ソングライン)がオーストラリア全土に走っていたそう。 「文字を持たないって、ちょっと羨ましいと思ったんです。文字にすればするほど本質からは遠くなると思うから。」 「実は読み進めるほどに、この地でのアボリジニの存在は深くて複雑で、(中略)ウルルは遠すぎて懐かしいと思えなかったんです。アボリジニは今風に言えば、超シンプルライフなんですよね。動物に近い存在。私たちはそこに戻ろうとしても絶対に戻れないけど、私はどこか憧れてしまう。万物は意味があってこの世に存在している、と思えたとき、ウルルを少し身近に感じたかな。」 |
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ブルーマウンテン ユーカリの樹海が広がる国立公園。ユーカリが放つ油分に青い光のみが反射するため全体的に青みがかって見えるんだとか。「深い群青のようなミステリアスなブルー」。土地のミネラル成分のせいで落雷が発生しやすく、ユーカリの油分で山火事を繰り返しますが、この環境に適応しているユーカリの森は約1年で元に戻ってしまうそうです。 「こういう山火事とか天災などが起こるといつも思うんです。にっちもさっちもいかなくなったときは1回壊して、初めからやり直すしかありません。そうせざるをえないことがちょっと羨ましいなと。」「私自身も自分なりに追い詰められたり、どん詰まりを体験しています。(中略)ダメな時ほど、そこで諦めないことです。ダメな時ほど、どんなふうにダメな時を過ごしたかで、その結果が変わって来るんですよね。(中略)物事の上達も同じです。階段を駆け上がるように上達する時もあれば、プラットフォームの時もある。でも立ち止まっている時にどのくらいエネルギーを蓄えているか否かで、次にどれくらい上がれるかどうかが決まるんです。」 |
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【発表媒体】
雑誌「美ST」(光文社)2012年12月号、2013年1月号「ユーミンの美しきたましい紀行」第7回、8回 (フルカラー、合計12ページ)
撮影: 平井啓治、ヘア・メーク: NoLi、スタイリスト: 重光愛子、取材: 安田真里、デザイン: 鈴木徹
【メモ】
· ユーミンは雑誌「美ST」で2012年6月号〜2013年7月号で連載「ユーミンの美しきたましい紀行」を持っていました。これは日本のパワースポットを紹介する企画でしたが、第7回8回は2号にわたりオーストラリア特別編ということでエアーズロックが有名な内陸のウルルと、シドニーにほど近いグレーターブルーマウンテン地域を取材。
· エアーズロック、ブルーマウンテンの他、ジェノラン鍾乳洞(23年1月号にはたいへん美しいグラビアが掲載されています)、ウルル近隣の田舎町ルーラやカトゥーンバにも立ち寄ったようです。
· 「美ST」は40代女性をターゲットにした美容雑誌で、毎号4ページほどがユーミンの連載に割かれています。美しいグラビアと共に1ページ文字ぎっしりという感じでユーミンが感じたことや後輩にあたる40代へのアドバイス(ときどきお説教?)が綴られています。各地の情報は少ないかも。
他の号のパワースポットは下記の通り。
2012年 |
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2013年 |
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06月号 |
比叡山延暦寺(滋賀) |
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01月号 |
オーストラリア特別編2 |
07月号 |
聖域の岬(石川) |
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02月号 |
然別湖(北海道) |
08月号 |
大石林山(沖縄) |
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03月号 |
文杭峠(長野) |
09月号 |
斎場御嶽(沖縄) |
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04月号 |
神田川源流(東京) |
10月号 |
那智の滝(和歌山) |
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05月号 |
(休載) |
11月号 |
白滝赤石山(北海道) |
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06月号 |
ハワイ特別編1 |
12月号 |
オーストラリア特別編1 |
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07月号 |
ハワイ特別編2 |
2013 ハワイ
雑誌「美ST」の取材でハワイへ旅行。
【主な旅程】
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ハワイ島
キラウエア火山 ハワイ火山国立公園内にある火山。気まぐれで嫉妬深い女神ペレの伝説と共に今なお噴煙を噴き上げている。 「訪れるまでは火山にも男性的なイメージを持っていたけれど、実は女神ペレの情熱的なエネルギーが宿る女性的な場所でした。溶岩に身を置き換えたペレは破壊する一方で、新しい土地と命を生み出します。破壊と再生を繰り返し、マグマによって島を生み続ける活火山は、今まさに生きている。本当にパワースポットたる場所だなと思いました。」
ケアウホウ 中心街カイルア・コナから南下したところにある穏やかな地区。カメハメハ大王3世の生誕地。 「今朝もね、ケアウホウのメネフネの樹に立つと、心がさわさわさわさわ、としてね。初めて、ここに住むにはどうすればいいかを考えました。以前だったら自然がいくら素晴らしくても退屈でやってられない、刺激に慣れすぎた自分がいるから無理だなと思っていたけれど、私自身も経験を重ねた中で、静かに心を澄ますと何もないと思っているところに情報が沢山あることに気付けたんです。」「心地よく生きるためには、刺激に流されないことだと思います。」
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オアフ島
カヴェヘヴェヘ ワイキキの西側、ハレクラニホテル前にあるビーチ。海底より淡水が湧き出ており、古来より病気の治癒を目的とした沐浴のための場所だった。 クーカニコロ・バースストーン ここには11世紀から約700年間王族女性が出産したというバースストーンがある。 「私にとっての出産は歌を作り出すこと。出産経験がないので、曲作りを辞めてしまったら自然に背くことになってしまう。苦しくても、辛くても、ときに至福の達成感もあり、40年間曲作りを続けてきましたが、ここにいるとそんな様々な思いが、突如込み上げてきたのです。すると“それでいいんだよ”と土地からの囁きが聴こえてきて、“これでよかったんだな”という安心感に包み込まれました。」
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【発表媒体】
雑誌「美ST」(光文社)2013年6月号、7月号「ユーミンの美しきたましい紀行」最終回(フルカラー、合計16ページ)
「美ST」にはオリジナルにあたる大型版のものと、同じ内容で「持てちゃうサイズ美ST」と題した小型版があります。
撮影: 平井啓治、ヘア・メーク: Eita、スタイリスト: 金澤見映、コーディネーター: 吉田玲子、取材: 安田真里、デザイン: 鈴木徹
【メモ】
· ユーミンは雑誌「美ST」で2012年6月号〜2013年6月号で連載「ユーミンの美しきたましい紀行」を持っており、その最終回がハワイ特別編でした。上記以外にもハワイ島のアメリカ最南端や、シェラトン・コナ・リゾート&スパ、ワイキキのモアナサーフライサーウェスティンリゾート&スパ、デルタ航空の快適サービスなどが紹介されています。
· ハワイはユーミンにとってお馴染みの観光地というだけではなく、日本人としてシンパシーを感じるパワースポットなんだそう。「なぜ日本人がこんなにハワイ好きなのかを考えたとき、同じカルチャーが日本にもあるから。それはアメリカナイズされた憧れのハワイというよりも、いつの間にかモダナイズされた日本人が忘れていた日本元祖のスピリット、例えば、おもてなしの心や、もったいないと思う心などを、この土地にいると呼び起され、祖国を感じてしまう。無意識のうちに自分たちのルーツを見いだすきっかけがあるからだと思うんです。」
· ユーミンのエッセイはいつも感性的かつ論理的だなと思いますが、この雑誌のテーマ「美しさ」と本連載の「パワースポット」についてユーミンから読者へのメッセージをいくつか。
パワースポットについて。
パワースポットと言われる場所には目に見えないものがいっぱいある。(中略)見えない何かが、一瞬で自分を無にさせてくれるんです。いったん無になったときに何か脳内に変化が起こり、そこにパワーが吹き込まれるっていうのかな。でもすべては自分の中にあるんですよ。パワースポットに訪れたからと言って、決して、外から何かを与えられたり、もらったりするものではないと思います。私は自分の中の力を引き出せる手段の一つとして、パワースポットに訪れたくなるのです。」
”美しさ”について。
「私は、目では見えない雰囲気・オーラ・佇まいが、美しい人を決めると思います。(中略)そのためには刺激に流されない生き方も然りだし、バランスをとることも大切。そして、旅に出てその土地の神話を知ったり、言葉の響きが持っている情報を思い浮かべてみる。」
「(前略)私が様々な土地を巡りながら感じた美しさの概念は強さ。“美”は強くないと美しくないと思う。それはマッチョってことではないですよ。(中略)美しいと言われる人々は、その国のその土地と上手く呼吸して美を培っていったのではないでしょうか。」
人生のゴールについて。
「40代は大変なときですよね?ホルモンや自分を取り巻く環境の変わり目でもあるでしょ?そこに敏感に対応できて、心身共にバランスを取れれば、うまくサーフィンできるんだけど、言うは易し。迷ったときは、自分のゴールは何だろうと考えるといいですよ。美魔女コンテストで優勝するのもいいけれど(笑)、その後も人生は続く。もっと先のゴールを見据えるの。私のゴールは、(中略)『詠み人知らずになること』。私の名前が忘れ去られても歌だけが残るのが素敵だと思うんです。そのゴールを目指して、また歌を作ってゆきます。」
2015 コートダジュール〜パリ、リヨン
雑誌「フィガロジャポン」の取材でコートダジュールとパリを、NHK「SONGS」のロケでリヨンを旅行。
【主な旅程】
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フィガロジャポンの取材でコートダジュール 〜 パリの旅 |
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ニース〜ヴァンス ユーミンにとって特別な画家マティスを訪ねる旅。彼は晩年を南仏で過ごしている。
マティス美術館:晩年のマティスが暮らしたニースの屋敷が没後、彼の美術館になっている。 ヴィラ・ル・レーヴ:マティスが暮らした家が短期滞在型アトリエとして画学生やアーティストに貸し出されている。 ローゼル礼拝堂:晩年のマティスがデザインと装飾を施した礼拝堂。ユーミンは91年モナコの旅でも訪れたが、改装中で入れなかったのが心残りだった。 「ローゼル礼拝堂は、最後の仕事と覚悟して取り掛かった作品と聞いていましたから、どうしても見たかった、来たかったんです。」
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サンポールドヴァンス〜ヴァロリス やはり南仏を愛した画家ピカソの足跡を訪ねる。
ラ・コロンブ・ドール:ピカソが愛したホテル。オーナーが貧しいアーティストから宿賃の代わり絵を受取り、いつしか名画が集まるホテルに。 「名画が生活空間に普通におかれているんです。それが素晴らしくて。」 国立ピカソ美術館:礼拝堂に壁画のように描かれた大作「戦争と平和」がある。
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ヴィルフランシュ〜マントン 詩人であり小説家であり、劇作家であり、画家でもあったジャン・コクトーもまたこの太陽と海の街に暮らした。
サンピエール礼拝堂:聖ペテロの物語を描いたフレスコ画がある。コクトーはピカソにフレスコ画の手法や陶器の手ほどきを受けたそう。 ウェルカムホテル:コクトーが「オルフェ」を描いたホテル。 ジャンコクトー美術館:コレクターから約2,000点の作品が寄贈されている。 「コクトーの作品というと、腺病質な妖しさを思い浮かべます」「まとめて彼の作品を目にした時も、懐かしい悪夢みたいな世界観だなぁと」 「その彼が、この太陽の町に暮らしたのは少し意外な感じがしますが、強い日差しがつくる影を見て、納得がいったんです。」
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ジヴェルニー クロード・モネの家と庭:「睡蓮」で有名なモネが暮らした打ちと庭が遺っている。 「一年を通して何らかの花が咲いているようにと百種もの植物を植えたそうですが、いい意味で整理されていない、自由という秩序によって出来上がった空間。咲いては枯れ、再び咲く。移ろいながら生き続けるこの庭があることで、モネ自身も生き続けているような。この環境自体が、偉大な作品をも凌駕する表現そのものに感じられました。」 |
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パリ クレイジーホース:パリにある老舗のナイトクラブ。世界中から美女が集まり、ショーが行われている。 「意外な場所にあるんです。サンローランの目と鼻の先。何度も行き来した通りなのに気づかない。 それも当然で、昼間はさして変哲のない外観が、日が暮れるとふわっと浮き上がるんです。」 スパキャレリのサロン:幻のブランド「スパキャレリ」のサロンへ。 フォンダルシオン・ルイ・ヴィトン:ルイ・ヴィトン財団によるコンテンポラリーアートの美術館。 「旅に持ってきたサン=テグジュペリの本にこんなことが書いてありました。僕らが過去の幸せばかりを語るのは、未来の幸せについてはそれを語る言葉を知らないからだと。でもここにはそれがあると感じたんです。(中略)未来を創造することは勇気。それも創作の役割の一つなのだと改めて感じたパリでした。」 ル・ブリストル・パリ:フォーブル・サントノレにあるかつて貴族たちが暮らした空間を仕立て直した豪奢なホテル。 目抜き通りにあるのが信じられなくらい中は穏やかな雰囲気。 「この中庭にも、パリの真中なのに、コロニアルな風が吹いてくるみたいな。貴族たちが味わった本当のリュスクって、こういう肩の力の抜けたものだったのかもしれませんね。」 |
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NHK「SONGSスペシャル」のロケでリヨンへ「星の王子さま」の作者サン=テグジュペリのルーツをたどる旅。
リヨン サン=モーリス・ド・レマン:サン=テグジュペリの育った村。彼が育ったシャトーや通った教会を訪ねる。 アンベリュー飛行場:サン=テグジュペリが12歳の時初めて空を飛んだ飛行場。この経験が彼の一生を決めることに。 ユーミンもセスナに乗り込む。「アップリケの上を飛んでるみたい!」 地元小学校を訪問:「星の王子さま」を使った授業を見学 子供たちは物語の中でキツネが別れ際に教えてくれる秘密「大切なものは目に見えない」について議論していました。 |
【発表媒体】
雑誌「フィガロジャポン」(CCCメディアハウス)2015年9月号〜11月号「アンシャン テユーミン!」VOL.5〜7
photos: Ayumi Shino (vol.5), John Chan (vol.5), Wataru (vol.6), Takao Ohshima (vol.6,7),
coiffure et maquillage: Naoki Toyama (Iris), texte: Yukiko Yaguchi, coordination: Tomoko Yokoshima
また「アンシャンテ ユーミン!」は「ユーミンとフランスの秘密の関係」という単行本になっている
NHK「SONGSスペシャル」(2015.12.19放送、約50分)
構成: 渡邊健一、コーディネーター: 船戸睦美、撮影: 佐藤努、三好唯之、プロデューサー: 町田麻美、制作統括: 加藤英明、演出: 松ア景子
【メモ】
· 雑誌「フィガロジャポン」の連載「アンシャンテ ユーミン!」の取材でコートダジュールとパリを旅行。また、NHK「SONGSスペシャル」のロケでリヨンを旅行。ただし、2015年はオフィシャルバイオグラフィにこの旅行の日程が載っておらず、実際のところ同じ行程内でコートダジュール、パリとリヨンに行ったのかはわかりません。「SONGS」のナレーションによるとリヨンは2015年5月に訪れた模様。
· 「フィガロジャポン」では2015年5月号〜2016年4月号の一年間連載しており、そのうちの15年9月号がコートダジュール特集、10月号・11月号がパリ特集でした。この連載は珍しく単行本化されており2023年現在でも購入可能です。「ユーミンとフランスの秘密の関係」には「フィガロジャポン」掲載の旅のパートの文章がル・ブリストル・パリのパート以外全文掲載されています。写真は小さいものが一部削られていますが、代わりに連載には掲載されていない写真が追加されています。
· 「SONGS」のほうは「気づかず過ぎた初恋」を「星の王子さま」の主題歌として依頼されていた時期で、リヨンに作家のサン=テグジュペリの幼少期を訪ねる旅でした。番組の前半がリヨン、後半がかつて「瞳を閉じて」を贈った長崎県の奈留高校を再び訪れる旅でした。「星の王子さま」に出てくるサン=テグジュペリが遺したメッセージ「心で見た時だけ本当のことがわかる 大切なものは目に見えない」と自身の「やさしさに包まれたなら」の「目に映るすべてのことはメッセージ」が一見、真逆のことを言っているようでその魂は同じというところが興味深かったですね。つまりは、ぱっと見、見えないからといって無いものとするのではなく、そこには確実にあるんだから見ようとすればきっと見えるはず、という感じでしょうか。。。
· ユーミンにとってマティスは特別な画家ということですが、この「フィガロジャポン」の特集を読むとその特別感がよくわかります。もともと若いころから好きで、結婚直後に譲ってもらったドローイングを家に迎えてからどんどん好きになっていったそうです。近年はその作品だけでなく彼の晩年の生き方そのものを作家として尊敬し自身もそうありたいと思われているのではないでしょうか。掲載されている晩年のマティスが最後の仕事として取り組んだ礼拝堂の絵はとてもシンプルな線画です。「肉体の衰えからそうなったのだという人もいますが、自分の肉体と対話しながら表現を見つけていくのがアーティストだと思うんです。肉体と表現のエネルギー量は関係ありません。それに、削ぎ落すことは多くのエチュードやスタイルの変遷を経て、初めて可能になります。経験と研鑽があったから、それをそぎ落としたときにとてつもない感動が生まれた。礼拝堂に入った瞬間、そう感じ取ることができました。それがわかる自分がちょっと誇らしかった。たぶん、24年前の私ではわからなかったと思います。来るべき時は今だったんです。」こういった生き方や制作姿勢へのユーミンの共感は、私たちにとってもファンとして、あるいはこれから老いる身としても頼もしいものではないでしょうか。