水の中のASIAへ
【公演スケジュール】
38会場43公演
1981年
5月19日 神奈川県民ホール大ホール
5月21日 千葉県文化会館大ホール
5月26日 鹿児島県文化センター
5月27日 福岡市民会館大ホール
5月28日 熊本市民会館
5月29日 大分文化会館
6月 3日 広島郵便貯金ホール
6月 4日 山口市民会館大ホール
6月 5日 下関市民会館大ホール
6月 6日 長崎市公会堂
6月13日 大阪厚生年金会館大ホール
6月14日 大阪厚生年金会館大ホール
6月16日 長野市民会館
6月18日 新潟県民会館大ホール
6月19日 富山県民会館
6月20日 石川厚生年金会館
6月24日 和歌山市民会館大ホール
6月25日 岡山市民会館
6月26日 神戸文化ホール大ホール
6月30日 福井市文化会館
7月 1日 京都会館第一ホール
7月 4日 宮城県民会館
7月 5日 岩手県民会館大ホール
7月 6日 青森市民会館
7月 8日 秋田県民会館
7月10日 名古屋市民会館大ホール
7月11日 名古屋市民会館大ホール
7月13日 群馬音楽センター
7月14日 足利市民会館大ホール
7月15日 静岡市民文化会館大ホール
7月17日 高松市民会館大ホール
7月18日 松山市民会館大ホール
7月19日 高知県立県民文化ホールオレンジホール
7月23日 宇都宮市文化会館大ホール
7月24日 茨城県立県民文化センター大ホール
7月29日 北海道厚生年金会館
8月 9日 大阪・フェスティバルホール(追加公演) [1][3]
8月31日 中野サンプラザホール [2]
9月 1日 中野サンプラザホール [2][3]
9月 2日 中野サンプラザホール [2][3]
9月 3日 中野サンプラザホール [2][3]
9月 9日 サンシティ越谷市民ホール(追加公演)[4]
9月11日 厚木市文化会館大ホール(追加公演)[3][4]
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○ 情報はツアープログラムを参考にしています |
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ただし一部未掲載のため下記の情報を参考にしています [1] FC会報10号掲載の会員からのレポートおよび「プガジャ」81.8号より。ただし週刊FM1981.8.3号には大阪厚生年金会館と記載しているが[3]があるため、フェスティバルホールを採用している。 [2] 朝日新聞1981.5.16 付に発売開始告知が記載、9/4の東京厚生年金会館公演も記載されチケットも発売されていたようだが、 [3] チケット半券で確認。 [4] FC会報「YUMING Vol.8」に記載。
FC会報vol.6(81年春発行)には5月初旬に香港公演、7/26相模原市民会館、8/27-9/3中野サンプラザ8日連続公演の予定が掲載されているが、
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【演奏曲】
Miss Lonely
ハルジョオン・ヒメジョオン
わき役でいいから
(MIME1: 空飛ぶ絨毯)
時のないホテル
スラバヤ通りの妹へ
(MIME2: 人喰い大王)
78
Reincarnation (新曲)
大連慕情
(MIME3: 不思議な草野球)
まぶしい草野球
HONG KONG NIGHT SIGHT
静かなまぼろし/気ままな朝帰り
卒業写真 (弾き語り)
守ってあげたい (途中まで弾き語り)
未来は霧の中に
私のフランソワーズ
(EC)
CHINESE SOUP
〜 HONG KONG NIGHT SIGHT
DESTINY
(EC)
埠頭を渡る風
○ 情報は「シンプジャーナル」81年11月号、「オリーブ」83年3月号などを参考にしています
【出演者】
ウォーターゲイツ
Drums: 重田真人
Bass: 石井治郎
Guitar: 市川祥治
Keyboards: 新川博、杉田淳子
Chorus: 鈴木祥子、松木美和子
○ 情報はツアープログラムを参考にしています
【グッズ】 ※ 当時はツアー毎に作ってなかったかもしれません。
プログラム……¥1,000
トレーナー……¥3,800
(サックスブルー/ブルー/レモンイエロー/カーキ)
ポロシャツ……¥3,000
(白地・ロゴ青/白地・ロゴピンク/ピンク地・ロゴ白)
Tシャツ ……¥2,000
(サックス/レモン/ホワイト)
アンブレラ…… ¥2,600
(エンジ/ピンク/インディゴブルー/ブルー/ベージュ)
スポーツタオル……¥2,000
ハンカチ…… ¥500
(エンジ/ピンク/インディゴブルー/ブルー/ベージュ)
ワッペン……¥800
○ 情報は会場配布の通販案内を参考にしています
【主なクレジット】
Cast: Masato Shigeta, Jiro Ishii, Shoji Ichikawa, Hiroshi Shinkawa, Junko Sugita, Yoshiko Suzuki, Miwako Matsuki
Direction: Shizuka Ijuin
Staging: Dai Murata
Pantomime Choreography: Mamako Yoneyama
Musical Direction: Masataka Matsutoya
Stage Arrangement: Hiroshi Shinkawa
Art Direction: Shintaro Saiki, Yoshihiko Tanaka, Makoto Yoshimi
Light Planning: Noboru Yamashita
PA: Yasuo Kawada
Costume Design: Sachiko Ito, Ikuko Abe, Lisa&Chisa, Yoko Yanagihara
Stage Manager: Masahito Ohashi, Terunobu Otsuka, Katsumi Ninagawa
Film: Group Dirt
Cooperated by Kirarasha
Produced by Hands
Supported by Toshiba EMI
○ 情報はツアープログラムを参考にしています
【チケット料金】
中野サンプラザ公演: S席¥3,000、A席¥2,500。
【メモ】
・ 81年度春夏ツアー。タイトルはツアー中発売になったアルバムと同じ「水の中のASIAへ」。
・ アルバム同様エキゾチックなアジアをテーマにしたコンサート。雲母社のプレスによると「19世紀、アルデコラティックに大影響を与えたのが、ペルシア・ジャワ・日本・ロシアバレーの色彩であったことが、今回のこのテーマを作りあげる視点となり、ロートレックやエルテの装飾性、コルビュジュの建築の中に具現化された世界、その人達の眼になって、1981年のASIAを人工的に作ってみました。」とのこと。
・ 前半はコリオグラフにヨネヤマママコを迎え、バンドメンバー総出のパントマイムを挟みながら進行。一番の見どころはコンサート中盤「Reincarnation」でステージ後方から登場する巨大なドラゴン。ユーミンはそのドラゴンの頭の上にのっかって登場。ドラゴンセットを含めた総制作費は1億円以上だったそうです。この巨大なドラゴンは全公演持って回ったようで、ステージ間口が非常に狭い京都会館でも登場しています。当時からユーミンチームには、地方でも都市でも同じ演出を楽しんでもらうというポリシーがあったようです。
・ ここで歌われた「Reincarnation」はこのツアーのために書き下ろされたもので後の83年にリリースされたアルバム「REINCARNATION」に収録されたものとは歌詞が違いました。このツアーは翌年ビデオ発売されており、幸いこのツアーバージョンの「Reincarnation」も収録されています。またこの「Reincarnation」のシーンは40周年記念ベストアルバムの初回特典DVDにも収録されました。
・ ツアーはゴールデンウィーク頃、香港公演を皮切りにスタートする予定だったようで、直前までファンクラブなどで告知されていました。開催が見送られた理由は公表されていませんが、以降の80年代は香港における邦楽広東語カバーの全盛期をむかえ、多くの日本人アーティストが提供楽曲のみならず作者本人も当地での知名度を上げていくのに対し、ユーミンは90年代後半までほぼ何のアプローチもしてこなかったように思われます。
・ 週間平凡81.6号によると福生市民会館で公開リハーサルが行われています(82年週刊FM別冊「JOY MUSIC」では5月に立川市民会館でと書かれている)。レコード会社が報道陣を連れてゆくためにバスを用意。これは当時は非常に珍しいことだったようです。クリエイト大阪のサイトに掲載されている当時の舞台監督・大橋氏の回想によると、ホールを貸し切ってリハを行うということを始めたのはユーミンが最初ではないかとのこと。これを提案した当初はお金と時間がかかりすぎるとケチョンケチョンに言われたそうですが、アーティスト側がそれを理解してそうしたいと言ってくれたからこそ複雑なステージができたし、皆が倣うようになって今では一般的なことになっていると振り返っています。
・ 83年3月号のオリーブ(平凡出版)の「特集・コンサートは楽しい大事件!」のメインコンテンツとしてこのコンサートがかなり詳しく紹介されています。演出の伊集院静の長編インタビューと彼が書いた分厚い台本をベースに、コンサート全編の進行が紹介されています(ドラゴンが登場する前の第1部も写真入りで紹介されているのが有り難い)。また全体進行だけでなく、衣裳、メイク、リハ、舞台美術なども紹介されており、現在のFC会報並みのボリュームです。
・ このツアーを最後にその伊集院氏がチームから離れました。伊集院氏はコンサート演出にとどまらず1年に2枚アルバムを出して、2本ツアーをするなど、ユーミンの活動方針を提案。コアとなるアルバム制作は松任谷正隆がプロデュースを担い、その他の活動は彼がプロデューサー的にチームを導いていたようです。上述83年「オリーブ」掲載のインタビューでユーミンは「伊集院さんは、たんなる舞台演出家というよりは、私の人生のひとつの節目を演出してくれた人です。ステージの上にのる人をその気にさせてしまう人で、『あなたは政治家と同じなんだから、票があるうちに1人でも多くの人と握手してらっしゃい』といわれ、コンサート・ツアーに出してくれました。表現者としての才能と、人をオルグする才能を持った人です。」と振り返っています。伊集院時代は集客が難しい時期もあったようですが、この超ハードで地道な活動が第2次ブーを起こす土壌を温め、また第3次までその勢いを継続させる体力と集中力を養わせたのではないでしょうか。伊集院氏は後々どちらかというとうんざりする感じで他の歌手のコンサート演出からも手を引かれたようですが、後年もユーミンとの仕事は楽しかったと振り返っています。雑誌「サンサーラ」92年10月号(徳間書店)のインタビュー:「利益があがるとそれをスライドさせてスタッフにも演出にもお金をかけていかなければ駄目なんです。ところがやっと儲かり始めると、このワクで出来たものはこのワクでやるという発想になってしまうんです。それがなかったのは松任谷由実だけですね。それまで五億円ぐらいかかっていたものを、今回は八億円くらいかけたいからどうしようか、という発想をする。そういう意味では並み外れて優れていますね。私はいろいろな歌手の演出をするつもりでいたのですが、松任谷由実に“倍のお金を出しますから、自分一本に絞って欲しい”と言われましたね。こういう発想が唯一できる歌手でしたし、だから今日があると思うんです。」